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手に余る季節を手放す

 花粉症は、自分が花粉症だと思うことから始まる。したがって、外に大量の花粉が飛んでいて、ちょっと身体の調子が悪くても、自分が花粉症だと認めないうちは花粉症にはならない。花粉の飛来予報なんか端から見ない。そういう風に免疫を躾ている。多分、馬鹿が風邪をひかないのと同じだ。 春の到来を報せる強い風のことを春一番という。キャンディーズが 「春一番」を発表した のは1976年。以来多くのアーティストがカバーを発表し、今もなお色褪せない名曲である。ここ最近昼夜問わずやってくる空気の暴力は、この楽曲のイメージと著しく乖離している。眼鏡と前髪では防御しきれないほどの花粉、砂塵、ビニール袋、ベニヤ板。「春やから殴っ てんねんで?」と言わんばかりの理不尽さ。昔の春一番は、それなりの愛らしさと希望をも って受け入れられる程度の強さだったのだろうか、と思い調べてみると、どうやらそうでもないらしい。19 世紀後半、長崎の漁師たちが春に吹く強い南風のせいで遭難し、以降彼ら はこの強風を恐れて「春一番」というようになったそうだ。なんだ、もとから恐怖の対象だったのか。やはり春の暴力はキャンディーズによって急激に矮小化されてしまったのかもし れない。今朝も、起きて一発、鼻をかまずにはいられない。それでも私は花粉症じゃない。ベラン ダに出ると、昨日外に干したタオルが全部なくなっていた。引っ越しの荷物が減るので却っ て助かる。春なんか、怖くもなんともないんだからな。
 

華に対して思うこと


 演劇に限らず、人は舞台に立つと花をもらえる傾向にある。これの意味するところは、 「あ なたはこの花に相応しい、舞台の華ですよ」という賞賛なのだと思う。家庭内で配偶者に花 をプレゼントするのも意味は同じで、「舞台」を「家庭」とか「家族」に置き換えればいい だろう。いずれにしても人から花を貰うことは (アレルギーとかでない限り)嬉しいことだ と思っていた。 花は生き物で、放っておくと死ぬ。放っておかなくても死ぬのだが、死ぬまでの時間は両 者の間で明確に差がある。花を貰った後、死んでいく彼女をどう看取るか、その態度が送り 主との関係性を望まぬうちに描写してしまう気がする。そのことがたまらなく苦しい、だか ら初めから花を贈らないでほしい。と考える人が相当数いることを最近知った。 こういう風にきちんと言語化すればまだよいと思うのだが。結婚記念日、仕事帰りに花を 買ってききたら、妻が 「誰がこの花の世話をするの?」と怒りだしてしまった、というエピ ソードが SNS で拡散されていた。ネット世論の手にかかればこんなものは男女の分断を煽 る話題としてしか機能しないのだから、感情移入をしてしまった分だけ徳が下がるというも のなのだろうが、どうにも、頭の片隅にこびりついて離れない話だ。 稽古場日誌もこれが最後になる。いよいよ本番が迫ってきた。舞台の華たちに花を贈れる ようなものができることを、ひたすらに願っている。

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