夢乃薫
外は雪 しんしんと降っているのです あなたがくれた雪だから ずっと眺めて、ずっと眺めて あなたのことを思います 微笑んでくれますか 嬉しくて 噛みしめながら歩きます やさしい言葉をくれたから 思い返して、思い返して 私もあなたを思います 喜んでくれますか 「元気でね」 そんな聞き慣れた言葉が どうしようもなく哀しくて 打ち震わせて、打ち震わせて やさしいあなたを思います 哀しんでくれますか 言葉足らずで 勇気が無くて 「あなたもね」としか 言えなくて とけていって
全てを懸けて 夢敗れた日 あなたはほんの少し笑った 焼けた肌 全身の擦り傷 青春の勲章 真っ直ぐに生きられるのは あとほんの僅かだと あなたは言うから 泣かないで 消え去っても 憶えているから 味わった苦しみ 勝ち得た喜び 捧げた犠牲 まだ終わりじゃないと あなたは言うから そっと背中を
高貴な依頼人② 女性の声の後に大きな扉が開き、我々はいよいよ逢坂の家に入ることになった。 琳城は胸に手をやり、彼女に微笑んで軽く会釈する。と、私にもやれという目を寄越してきた。仕方なくその要求に応えたが、如何にもな紳士然とした行為は私の性には合わぬ。むず痒いものである。 長らくこの屋敷には足を運んでいなかったのだが、屋敷の中は変わらぬ配置、以前に訪れた頃と全く変わっていないように思える。ただ、目の前の女性や奥に続く廊下の所々に立つ召使たちの面々を見るに、どうやら幾分
高貴な依頼人① 琳城から、荷物は少し大きめの手提げ鞄のみを持つようにとの注文を受けたので、私は他の荷を彼の家に置いてきた。 琳城自身はといえば珍しくステッキも何も持たず、指を組ませて馬車の窓から遷ろう景色を眺めている。 「さて、もう十分に落ち着いてきたところだ。そうだろ?先刻の質問の絡繰を教えてもらおうじゃないか」 「ああ、あの質問の話だね。一つ目の質問についてはこうです。暗号広告によれば相続の問題が発生し、恐らく差出人はイシュマエルに当たる人物と考えられる」 「待
一時期、よく映画を観た。観るとは言っても、監督は誰が好きで、あの作品が一番良くて、あの俳優が☓☓で○○をするあのシーンが……みたいなことを語れる映画フリークではない。ただただ観た。かつて友人に勧められたものや、わざわざネットで「映画 おすすめ」なんて打って検索もしたし、レンタルビデオ店で適当に手に取ったものを裏の説明も読まずに借りたりもした。要するに考えなしの雑食だ。腹が減っていた。映画は私の、行き場のない形容し難い「食欲」の対象になった。 観た作品の内容を覚えてい
琳城朗という青年③ 「というのも、暗号広告を解釈するに、こうです。ハガルは打たれん、イサクは砕かれん、地は口を開き牛を呑み込み、呑まれる男は二七三に及ぶ。打たれん、砕かれんは恐らくそのままの消極的な意味でしょう。仮に転じて積極的な意味であれば、この暗号広告を出す理由があるとは考えにくいからです。 そして後半から導かれる民数記の記述、つまりツェロフハドの相続から推し測るに、この『ハガル』と『イサク』はとある相続の問題に巻き込まれたようだ。それもコラの反逆を彷彿とさせる書き方
琳城朗という青年② 「どうだろう、これは間違いなく暗号だろうと私は思ったのだ。何者かによってテーブルに置かれた奇妙な新聞に奇妙な広告、これはきっと解決しなければならぬ、そう突き動かされたのだよ」 琳城は要領を得た顔をすると徐ろに立ち上がり、山積する本の中に手を突っ込んで何やらガサゴソとやり始めた。 「確かに間違いなくそれは暗号でしょう。その広告については、実は僕も少々考えるところがあったんだ」 あったあった、と本の山から引き抜かれた手には私が先日送った当の新聞が握られてい
琳城朗という青年① 永遠に思えるほど長く続いたトンネルの暗闇が終わるや、視界に飛び込んだのはまたも鈍色の曇り空であった。これまで飽きるほど単調な直線の続いた道程は漸くカーブに差し掛かり、窓を開け目を細めて外を見遣ると、ガタゴトと頑張る車輪の下から遥か向こうの景色に至るまで、ここ数日の雨で薄く湿った枕木の隊列と錆びついたレールが延々と続いている。 もう秋に差し掛かるというのにジメジメと淀んだ空気は晴れやかさの欠片もなく、どうも吸った心地がしない。先頭車両のてっぺんから不格
ばれるだけの嘘をついたら、 ばれるたびにまた嘘をつく。 一人はもう嫌だから。 嘘をつくのは私、 でも嘘なんかじゃないの。 本当よ。 「満月の夜に月を見上げちゃいけないんだって。 お婆ちゃんがずっと言ってた。とって食われるぞ、とり殺されるぞ、って。 あ、今、ただの脅し文句だって思ったでしょ? じゃあ、お婆ちゃんは何から私を遠ざけようとしたんだろうね?」 月光に照らされた細いふくらはぎ。透き通るように綺麗な膝。骨が見えてしまうんじゃないか。僕と同じで薄っぺらいTシャツと短パン
陶器製の花瓶から顔を出すその花は、とても傲慢に見えた。誰一人自分を貶す者はいないとでも言うかのように、真っ直ぐに上を見つめている。 そこに、どこから湧いたのかわからない小さな蝿が飛んできた。耳障りな音。蝿はその花の周りをぐるっと一周すると、まるで興味を示さずに去っていった。 白い花。その小さな花弁の端が、ところ狭しと中心に植え付けられている。何枚も折り重なる花弁の間隔は一見、統制の取れたようでいて、よく目を凝らすとそうではなかった。 花弁の数は何の数か。魅了された者
ギアをローからセカンドに入れ、クラッチを離しながらアクセルをそっと踏み込む。固定された右足の踵と自由な左足のコントラスト。足先を押し返すクラッチの反動が柔らかい。 ――――あのときは助手席からあなたの横顔を眺めるだけだった。 「ドライブデートではね、相手が疲れたときにどんな人になるのかを見るのよ」 いつか母から聞いた言葉を漠然と思い出しながら何を話そうかと思案していた私に、運転席の晴人さんが話しかける。 「美沙ちゃん、映画はよく観る?」 「ええと、たまに、かな」 気
無機質なアスファルトには血は通わない。その上をカツ、カツ、という足音が通り過ぎる。 日が差す頃ははっきりと見えたであろう雨降りの跡も、今となってはジメジメとした気配でしか感じ取ることができない。街灯は不規則に点滅し、どこか不気味さを漂わせるのに一役買っていた。 「おい、こないだのマーティーの話は聞いたか」 片方の男が不意に切り出した。身長は190センチ近くあるだろうか。細みの長身に黒のコートが良く映えていた。右手には買ってから随分立つジッポが握られている。 「ああクソ」
「今までで最高の気分になったのはどんなとき?」 「うーん、あえて挙げるなら」 由美は右手の中指で左目の下を鼻に向かって撫でる。ゆっくりと。彼女の考えるときの癖だ。 「そうね、8歳の誕生日パーティーかしら。あのときは家族みんなでお祝いしてくれたから」 「お父さんも、お母さんも、お兄さんも?」 「そう、あとフィガロも」 「そう。猫のフィガロもいたね」 「でもあの誕生日は本当は無かったのかもしれないわ」 「本当は無い?」 「ええ。全部私の頭の中の願望なのかも。父が