ひとりの女の子とピアノのお話。

 ある所に女の子がいました。彼女は5歳の時からピアノを弾くようになりました。ママに勧められたからです。彼女のママはとても厳しい人でした。幼稚園から帰ると遊ぶ前に必ず30分練習をしなくちゃいけませんでした。5歳にとっての30分はとてつもなく長い時間でしたが彼女は毎日頑張りました。
 彼女は小学生になりました。ピアノの練習は相変わらず厳しくて、30分は1時間になりました。間違えるとママは台所から飛んできて、彼女の手を叩きました。彼女は泣きながら毎日毎日練習したのです。その甲斐もあり、彼女の腕はメキメキと上達していきました。
 ある時彼女はママに訊かれました。
「大人になったら何になりたいの?」
 彼女は答えました。
「ピアノの先せ...」
 最後まで言う前にママの顔色が変わりました。怒っている顔でした。先生じゃだめなんだ、と彼女は思って言い放ちました。
「ピアノを弾く人!」と。
 ママの顔はパッと明るくなったのです。
「ピアニストね!?」
 彼女は良くわかりませんでしたが、「うん!」と元気良く答えました。その時から彼女の夢はピアニストになりました。その問答から毎日毎日毎日ママのレッスンは激しさを増しました。夢が出来たからです。
 彼女の夢はママの夢。彼女はどんどん難しい曲が弾けるようになります。凄い早さで譜面が読めるようになったのです。バイエルもブルグミュラーも幼稚園の頃には終わっていて、小学生も高学年になると、大人顔負けのショパンやリストを易々と弾いてみせるのでした。

 その頃からです。なんだか可笑しいのです。彼女はママが喜ぶままに、学校の行事であらゆる伴奏をこなしました。学芸会で合唱の伴奏、コーラス部の伴奏、合奏のピアノパート、終いには先生の代わりに校歌や国歌斉唱の伴奏もすることになったのです。ママは大喜び。彼女はいそいそと音楽室へ通ってはピアノを弾いていました。そこら辺の同級生より遥かに上手に弾けたからです。皆いつも「凄いね!」「上手!」と褒めてくれたから彼女はとっても嬉しかったのです。でも調子に乗ってはいけなかったのです。聞いてしまったのです。

「どうしてあの子、いっつもピアノ弾くの?」
「さぁね」
「偉そうだよね」
「見せつけてんじゃない、自分はこんなに弾けるんだぞーってさ」
「あー、あたしらのこと馬鹿にしてる感じ?」
「そうそう」
「うわー、マジないわ、引く」
「ほんとほんと」
「きらいだよねー」

 彼女は音楽室へ入ることは出来ませんでした。そのまま回れ右をして走って教室へ戻って、放課後のオレンジ色と野球とサッカーと笛の音の中で静かに泣きました。次の日の伴奏決めを思うと殊更に泣けてきてしまうのでした。そうだ。立候補せずにいよう。そう思って。
 翌日、伴奏決めが行われました。彼女は決心通り黙ってにこにことしていました。周りの女の子は不思議そうに、でも楽しそうに相談して伴奏を決めました。彼女はその年の学芸会ではピアノを弾かないことになったのです。これで平和になる!でもママは怒りました。
「どうしてあなたじゃなくて、あんな下手糞な子達が弾いたの!?」
 ごめんなさい、と彼女は泣きました。その次の年からはもっと上手くやろうと誓ったのです。でもどんなに上手くやろうとしてもママを怒らせ、同級生を怒らせました。彼女はピアノが怖くなりました。

 小学生の時、彼女はコンクールの地区本選で3位入賞を果たしました。辺境の田舎でも本選は本選。ママも先生も大喜びでした。なのに中学生になると本選に出ることすら出来なくなりました。彼女はスランプに陥ったのです。ピアノを弾くことへの恐怖と抵抗、悲しみ。
 高校生になるともっと苦しくなりました。ママはコンクールに入賞した時だけ優しくなり、それを周りに紹介する時だけ「自慢の娘です」と彼女に笑いかけることに気付いてしまったからでした。なんということでしょう。彼女はママにとってアクセサリーだったのです。
 『普段どれほど冷たくされようが、暴言を吐かれようが、暴力を振るわれようが、楽譜を捨てられようが、ご飯を食べさせてもらえなかろうが、布団を取り上げられようが、家に入れてもらえなかろうが、耐えていたのに。気付いてしまったらもう元には戻れませんでした。』

 大学受験。彼女はママや先生に言われるままに音楽大学を目指しました。言われた通りのレッスン。言われた通りの専門知識。言われた通り歌って、楽譜を書き取って。まるで、ロボットのように。もう周りの女の子達の蔑みの眼差しなど少しも気になりませんでした。
 そして合格しました。でも心の底は冷えきっていました。喜んだのは親元を離れられる喜びだけでした。さようなら、さようなら。大嫌いな田舎。大嫌いなママ。ピアノと心中出来たなら、どんなに幸せだったのでしょうか。でも現実は甘くないのが世の常。彼女は世間知らず。

 様々なことが、ありました。彼女は汚く穢れて田舎に押し込められました。パパは彼女を見ることもなく、ママは彼女と同じ空気を吸うのも嫌だと言い、家族と同じ空間で、彼女は幽霊のように扱われました。トイレすらも土下座をして懇願したのです。生き地獄でした。
 彼女は憎んでいました。ピアノを、音楽を、音楽を奏でる人を、楽しんで音楽と関わる人を、何もかもを憎んで憎んで憎んで、彼女は、死んだのです。ピアノが好きだった彼女は、もうとっくの昔に死んでいたのです。そう。生き残っていたのはただの亡霊だったのです。
 亡霊は、音楽を辞めました。自分にはもうそんな資格がないと知ってしまったからです。この穢れた指が奏でるものなど誰も聞きたくないことを知ってしまったら、どうすることも出来ませんでした。こんなことならピアノをもっと早く叩き壊してしまえば良かったのに。

 かつて少女だった亡霊は、いつの間にか音を忘れました。過去の栄光。でもあの人に褒められた喜びは決して偽物ではありませんでした。だって、そう思いませんか。いつだって、誰だって、子供は母親を、心の底では求めているからです。抱き締めて欲しいからです。
 少女は言っています。
「ママがよろこんでくれて、うれしかったの」と。
 亡霊は言いました。
「だってそれはただの」
 少女の無垢な瞳が揺れます。
「ただの、なに?」
 亡霊は未だに彼女に掛ける言葉を持っていません。あなたがもしその少女を見掛けたら教えてください。

 愛とは、幸せとは、一体なんでしょう。母の温もりとは存在するものなのでしょうか。母の幸せを優先する子供は悪でしょうか。娘に夢を託す母も悪でしょうか。その、親子は何処で何を間違えたのでしょう。それはもう分かりません。言うならばきっと最初からなので。
 さぁ、私の知っている憐れな少女と亡霊のお話はこれでおしまいです。そうそう。その亡霊はね、未だに彷徨っていますよ。あなたの奏でる音を憎むことはありません。そこは安心なさってください。それでは。


「後味の悪い話だ」「本当にね」

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