逃げた私を許してください。

 テレビの音声を垂れ流している我が家ではいろんなニュースも飛び込んでくる。毎日毎日何処かで誰かが死んでゆく。殺されたり、殺したりしながら。時には愛した人が。時には無差別の誰かが。そして多いのは、肉親だ。家族が、家族を、殺す。それは世の中の誰かにとっては衝撃的な事件なのかもしれない。でも、私にとっては、とても身近な理由。それは当たり前のことだった。家族は、家族を、苦しめる。蔑み合って、貶し合って、憎しみ合って、そして「心」から殺してゆく。「体」を殺すのは犯罪でも見えない「心」は殺したって気付かない。殺されたって気付かない。激的な何かが起きる前に、気が付いたら「死んでいる」から。
 私は、家族に、おかあさんに、殺された。そして、家族を、おかあさんに殺されかけていた弟や妹を、見捨てました。それを未だに後悔している、のかもしれない。

 「父を殺さないと母や弟や妹が暴力を振るわれると思った」という言葉がテレビから聞こえてきた時、私の体は固まった。性別は違ったけれど、「彼」は自分と同じに思えて。「父親は日常的に暴力を」、「夫婦仲は良くなく」、「両親の喧嘩を止められず」。様々なワードが私の中身をぐさりぐさりと抉りました。ああ、やめてほしい。どうして私のことを言っているの、と思うほどに。
 でもそれと同時に私は、自分の為にも、家族の為にも、母に立ち向かうことはしなかったことを思い出した。そんな勇気もなかった。手段も思い付かなかった。嘘です。手段くらい分かっていたはずです。だって私は、夜中、目を開けたら包丁を握りしめたまま、母の枕元に立っていたことが、あったのだから。それでも立ち向かわないことを選択した。恐怖と嫌悪を理由に、罵声と暴力を受ける家族を捨てて、逃げ出したのです。

 家族から離れたのは十九歳の時なのでもうすぐ十年が経ってしまうことになる。私は十九年間、母の暴力暴言を当たり前のように浴びる生活だった。ふとしたことが地雷になり、母は怒り狂い、謝罪も虚しくご飯をひっくり返され、力づくで玄関の土間に蹴り落とされ、外に追い出され、何度屋外で夜を過ごしたか分からない。でもそれが「当たり前」だった。私が「悪い子」だから「おかあさん」は「怒る」んだ。これは「悪い子」への「罰」なんだ。今から思えばそれは間違った認識だというのも頷けるけれど、でもそれは今でも「だからといって私が間違ってない理由にはならない」と自己否定が覆い被さっている。冷静に考えれば、母は明らかに常軌を逸しているであろうという認識にも関わらず、私は今でも「あれは本当のことなのだろうか」「私の被害妄想だっただけで母は本当は優しかったのではないか」「私が勝手に傷付いてるだけで、きちんと理由があって叱られただけだったのではないだろうか」ともくもくと疑問が湧き上がる。この思考こそが「被虐待児」である証拠だと言われても、それすら納得し切れずに。「母が悪かった」「家族が悪かった」「環境が悪かった」とは言い切れないのだ。
 現に「優しかった母」の記憶も、少しはある。インフルとおたふく風邪に同時にかかってしまって朦朧とする私の側に座り込んで、泣きながら私の鼻水などを拭いて、私の頭を撫でてくれたこととか。ピアノの発表会やコンクールの度に手作りのドレスを縫ってくれたこととか。体裁や世間体を気にする外面の良い母は誰の前でも「完璧な母」。その反動みたいに家で暴れながら泣きながら怒鳴るその人は、外で接してくれる人とは違う人だった。
 頻度や激しさで言えば、私よりは遥かに少なく、妹に至っては一切そんなことはなかったのだけど、それでも母は弟に対しては怒りのまま罵倒し手を出すことも少なくはなかった。ただそんな時に私にできることはなく、「やめてあげて!」と庇おうものなら代わりに酷い目に遭うのはそれまでの経験から重々承知していた。それを弟本人も分かっていて、お互いがそれなりに成長してからは「いいから構うな」と追いやられ、それとは裏腹に私が酷い目に遭っている時、弟は母と私の間に飛び込み、「やめろ!」と母に立ち向かってくれて。身代わりになることを恐れない訳じゃなかった。彼は、震えていたから。それでも私の受ける仕打ちが見ていられなかった、と後から笑うのだった。その度に何度私が自分の不甲斐なさに震えていたかも知らずに。
 悔しかった。飛び込める彼が。私を庇う優しい彼が。
 私は、君を、何度見捨てて、何度自衛したか、分からない、というのに。
 私達は、あの異常な家庭の中で、確かに「仲間」だったはずだった。互い以外には何も信じられずに、距離感も分からないままに、それでも寄り添っているしかなかった哀れなコドモだった。でも、私は。

 その日、私は、両親に選択を迫られた。
「このまま家に大人しくいるか、あの男の所に行くか、今すぐ選べ!」
 外は真っ暗。四月の、まだ肌寒い夜。その当時付き合っていた八歳年上の男性との交際を禁じられた私は、それでもその人を盲信し、関東と四国という距離にも関わらず何度か密会した。それがバレて数ヶ月監視されながら軟禁された後、両親は私の存在に耐えきれずに言い放った。私は少し迷いながら、でも感情のままに選んだ。

「出ていきます」

 私の言葉を予想していなかったのだろうか。両親は暫く無言になり、そして、激昂した。親不孝者、恥を知れ、死ね、と罵られながら、三分の猶予の中荷物を纏め、時間切れだと詰め込んだ荷物を奪い取られ、中身をぶちまけられ、所持金もなく、上着はパーカーのみで追い出された。

「うちの子供はもう(弟)と(妹)ちゃんしかいません」

 何度言われた脅し文句か分からない。でも、それが初めて実感を持った瞬間だった。私はその日、明らかにあの家での存在を消されたのだった。
 弟と目を合わせた気がする。妹は寝ていたかもしれない。言葉を交わす前に、私は外に。心残りは二人のことだった。「姉」として、今彼らを置いてゆくのは不味いのではないか。私が去った後、私が受けていた我が家の負の部分を誰が受けるのだろう。それはそのまま彼らを縛るのではないか。
 でも、私は、彼らの為に命を、人生を、捧げる、の?
 迷いは足を止めた。寒くて、寒くて、何度土下座したら許されるのかと頭は勝手に考える。死んだように生きる生活に戻りたいの? と頭の中で声がすることに嫌悪しながら、泣きながら、私は、私の自由を、選んだ。
 あの夜からずっと、後悔していた。あの時、彼らの為に、彼らが母のサンドバッグになるのを防ぐ為に、私が犠牲になることで「家族」が円滑になる為に、あの家に囚われていくべきだったのではないかって。その答えが、違う形となって、ニュースとして流れたように思えた。

 そうか、あの時、私があの人たちを、殺していればよかったのか。

 勿論、それが正しい解決だなんて、本気では思っていない。でも、思うのだ。この手で、あの人たちを黙らせていたら、私は今こんなに苦しんでいない、かもしれない。違う苦しみがあったとしても、それが一番平穏な終わり方だった、かもしれない。だって私はずっと、「どうして殺してくれないんだろう?」って、思っていたじゃないか。弟や妹との絆は失わずに済んだ、かもしれない。彼らを少しでも守ってあげられた、かもしれない。
 でもそれらは全部、「かもしれない」だ。もしそんな事件を起こしていたからって、しあわせになれたかなんて分からない。彼らにすら蔑まれたかもしれない。なんてことしたんだって責められたかもしれない。その不安だって、「かもしれない」なんだ。

 結局のところ、私は過去に囚われたまま動けない。動ける訳がない。私の中には「おかあさん」が生きている。現実にも生きてるはず(音信不通だから分からない)だけど、それとは別に「あの頃のままのおかあさん」が生きていて、私のやることなすことを受けて、暴言を吐く。暴力こそ消えたものの、私は多分、心の奥底で酷く扱われることを望んでいる。蔑まれたくて、嫌われたくて、堪らない。そんなことをされたら死にたくなる癖に、嫌われていないと落ち着かなくなってしまった。「自分なんか大切にされる訳がない」という思い込みは、きっと自己肯定感のなさによるもの。愛される度に、大切にされる度に、だいすきだよと伝えてもらう度に、嬉しくて有り難くて喜ぶ私の中で、何かが叫ぶんだ。「そんなの嘘だよ! いつか嫌いになる癖に! 今だけの言葉を吐かないで!!」そしてそれが、私の本音だ。悲しいけれど、悔しいけれど、そういう考えでしか生きてこられなかったのが、現実だ。

 親を殺せず、弟妹を守れず、逃げ出した私は、弱いままだ。何の為に生きているの、と自問自答しては、答えに詰まって泣きたくなる夜を幾つ過ごしたか分からない。きっとこれからもそうなのだと思う。いやだ、と、思う。こんなに苦しいのはいやだ。
 生きていていくことに資格なんて要らないんだよ、と人は言う。きっとそれが真実。でも私は欲しい。「生きていていい」と誰もが納得してくれる資格が欲しい。でもそんなものが存在しないのも、知っている。知ることが増えると動けなくなっていく。それが「大人」なのだとしたら、なんて詰まらないイキモノになっていくのだろう。
 親を殺した彼等と、親を殺せなかった私の、違いを思う。憎しみの量だろうか。悲しみの量だろうか。絶望の量だろうか。
 親に殺された彼等と、親に殺されなかった私の、違いを思う。愛された回数だろうか。蔑まれた回数だろうか。殴られた回数だろうか。
 ならばきっと私は、「足りなかった」のだ。全てが中途半端で、被虐待児としても胸を張れず(胸を張る事柄じゃないけれど)、愛されたという自信もなく、愛されることも愛することも苦手なままで、自分も他人も大切にできずに、それでも、生きていかなければいけなくて。
 親を殺した彼等と、親に殺された彼等を、密かに想いながら、そして呟くのだ。

「逃げ出した私を許してください」と。

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