ライブ配信者とリスナー、ブロガーと読者などの関係性の深掘り考察。(もう一度やってみようと思ったきっかけの出来事の話 "心の光")

誰も知らない、知られちゃいけない、"Konoha 02" が誰なのか ha ha

ごあいさつ


これは、自分ももう一度noteでやってみようと思ったきっかけになった、ネット上での出来事の話。そしてそこから気づいた少しユニークなこと。

考察する前に、まずは個別のエピソードから語っていきます。


さて、たびたび話題にしているニコニコとかYoutubeのライブ配信()で、もう5年くらい続けて見ている人がいる。長い人も何人かいるけど、その中の一人。

※ライブ配信とは:これもそろそろしっかり説明しておいたほうがいい気もするけど、いわばYoutubeとかニコニコの動画のリアルタイム版で、配信者とリスナーがリアルタイムにやり取りできる場所、と理解しておけばとりあえず十分か。

ぜんぜん想像がつかない場合は、ラジオのお便りコーナーみたいなものをイメージしてもいいかもしれない。でももっと距離感は近く、プライベートな雰囲気だ。

リスナーは配信者の人生や生活に強い興味があることが多い。数年単位の常連がいることも多い。でも今や配信者も星の数ほどいるから多様なスタイルがある。


(以下、以前に書いた「ダメ人間の考察」あたりも読んでおくとわかりやすくなります)

週末の夜、その人は普段と同じようにゲーム配信をしていた。自分はそれをパソコンで見ていた。これもいつもと同じだ。お互いにとって、幾度となく繰り返されてきた営みだ。

ただ今回はよく注意すると、スピーカーから聴こえてくるいつもの声に、今この瞬間よりも未来を気にしているような含みがどことなく感じられた。

例えるなら、クリスマスプレゼントを枕元に置くタイミングを見計らい、子どもが寝るのを待っている親のような雰囲気だ。


彼はゲームを数時間続けた後、改まった感じで話を切り出した。やはり。


2018年冬、ネットの閉塞感

(名前を出さないとはいえ、勝手に人の話をしすぎるのもあれなので、伝えたい内容に支障がない範囲で脚色・改変しています)

もともと自分は、口を開けば基本暴言が飛び出す、みたいな人の配信ばかり好んで見ているんだけど、近頃のその人(X氏としよう)はとくに荒れていた。

ほんの少しでも自分に都合の悪いコメントをしたリスナーをすぐBANにする、恐怖政治のような雰囲気になっていた。機嫌が悪いことも多く、よく無言になっていた。でもコメントがないと、すごく寂しそうにする。


その人はむかしはとても人気のある大手配信者だったが、最近はめっきりリスナーの数が減っていた。といっても、星の数ほどいる配信者の中ではまだまだ頭が一つか二つ抜けているくらいの位置ではある。

停滞の理由としてはいろいろ考えられそうだが、一番は本人の幼少期の悲しい体験、とくに親との関係からは逃れるのは難しいんだなという感じがした。

一時期は(私生活も含めて)全てを手に入れて、誰もがうらやむような状態まで上り詰めたのに、それらを自ら一つ一つ放棄していったようにすら見えた。


配信者と言われるとピンと来ない方は、ブロガーとか、あるいは芸能人とかアイドル等に置き換えて読むと、わかりやすいかもしれない


そもそも、最近のネットの雰囲気自体がどの界隈も盛り下がっている感じがあって、面白いことを提示するのが多くの配信者やブロガー等にとって難しくなっている雰囲気があるように感じている。

むかしは面白いことをしていた人を「つまらない」ってリスナーが叩いて遊ぶ、すべり芸みたいな状態になっていることがある。どこでもね。

でもそんな常連リスナーもお気に入りの配信者と共依存みたいになっているところがあって、叩きながらもその配信者がいなくなるととても困る。

とてもつまらなくなるし、寂しくなる。口ではすぐ「つまんないから他行くわ」って言うけど、実際は配信者の一挙手一投足をじっと見つめている。毎日毎日。


そしてそんな盛り下がった雰囲気を見て、自分(筆者)は滅び、あるいは盛者必衰を感じていた。

自分自身もそうだし、好きだった配信者も、ブロガーも、みんなもう未来を信じていなくて、後は死ぬだけ、もう生活が成り立たなくなりつつある、精神的にも全然満たされていない、死ぬ前にあとは何をしよう、借金はある、何をしても結果がでないし何も変わらないし、手は尽くしたけど手詰まりだ。自分は何をやってきて何を残せたんだろう。みたいな。

全盛期はあれだけ隆盛を極め、すごく人気のあった人ですら没落していく。

あれだけ不動の地位を築いていたように見えた人からでさえ、時の流れはたやすく様々なものを奪い取っていく。侵食。

一発あてるのも難しいけど、継続させるのはさらに難しい。


その時々で遠巻きに人気がある人だけを見ていたら、まるで何もかもがうまくいっていて、今日も世界は順調に回っている、じゃあうまく行ってないのは自分だけなの? ……そんな錯覚を持つこともある。

しかしよく見ると、台頭している人の足もとには無数の屍が転がっている。

1万の屍より、1人のスーパースターが目立つのがネットという空間の性質だ。


続・X氏の話。

いつもの配信を数時間やった後、その配信者のX氏は、ふだんの荒れた調子ではなく、潤んだような声で話し始めた。

「10年やってきて、色々と浮き沈みがあったし、今じゃリスナーも昔に比べればだいぶ減ったけど……」

一瞬で、見てる側の雰囲気もはっきりと変わった。彼はそんなことを言う人じゃないから。

リスナー側も、この人がどういう人生を送ってきていて、どういう性格なのかということは熟知している。

普段は少しでも気に障ることをコメントしたらBANされるので窮屈な感じがあった(BANされても、みんなアカウントを作り直してまたコメントするんだけど)。だからみんな裏で彼への不満を漏らしていた。

しかし一転して空気がゆるみ、「いつもと違うことが始まるんだ」という予感と期待が漂い始めた。


そこからは、修学旅行の夜みたいな打ち明け話になった。

X氏は「今日はちょっとやそっとじゃBANしない」と言い、リスナーもみんな気になっていたけど聞けなかったことを質問していった。

X氏はそれに答えていった。


その対話は1時間ほど続き、気が付けば時間は深夜になっていた。

そして配信は終了した。終わってみれば、それによって絆が深まったというか、小さくてよく見ないと見落としてしまいそうだが、確かに何かが変わっていた。

そこでは、何かが達成されていた。皆が少し優しい気持ちになっていた。それは一時的な変化ではなく、積み重なっていく変化だった。

「配信は終了しました」という文字が浮かぶディスプレイを眺めながら、各々のリスナーがそう感じていたはずだと思う。


CLANNADみたいなアドベンチャーゲームで、一つのルートのエンディングを迎えて心の光を手に入れた、みたいな感覚があった。

(X氏は男性だし、リスナーもほとんど男性だけど。暴力的な雰囲気があって、女性にはあまり人気がない。やってるゲームからしてそうだけど)


あるいは、歌の歌詞を引用するなら、こんな感じだった。

今想う闘いの日々 感謝するごとにあふれ出す慈悲
しのぎを削ったあの攻防戦 今なお続くここが最前線

(Dragon Ash「Grateful Days」より。Youtube動画へのリンク


考察:明示的レペゼンと暗示的レペゼンの人間

この出来事と、これまで見てきたものを振り返って、気づいたことがあった。ここからは考察です。


まずレペゼンというのは英語で言うとrepresentで、代表するという意味だ。

レペゼン埼玉なら埼玉代表ってこと。でも必ずしも一人や一グループである必要は無い。甲子園野球の西東京代表とかとは話が違う。Youtuberならレペゼン地球もいるよね。そのレペゼン。HIPHOP用語。


なぜレペゼンすることが必要かというと、受け手としては、自分達のメッセージや不遇を表明する代弁者が必要だから。そして団結しないと戦えないから。戦わないと、どんどん立場が悪くなっていきます。

発信者としては、不特定多数を相手にしていたら無限の競争に巻き込まれるし、たいてい誰にも刺さらないから。

例えばレペゼン渋谷だったら、スキルとか完成度とは別に、この場所で重要な音楽(作品)を作っているのは自分だ、という軸で主張していける。

そのコミュニティや場所の特有のローカルな要素を表すことが重要になる。これなら世界最強を目指せない人間でも、やる意義を明確にできる。守備範囲が明確になる。

レペゼン渋谷を例に挙げたけど、むしろネットでは場所よりも属性を背負うほうが主流ですね。例えば、20代の働き方とか、若者の貧困とか。


そして、そのレペゼンのやり方にも二種類あるように自分には見える。それが、明示的レペゼンと暗示的レペゼン。(いま自分が作った言葉)

まず、明示的レペゼンとは、さっきのレペゼン埼玉のように、誰からみてもわかりやすいように何かのコミュニティや場所を代表しているという意味で、明示的としている。

音楽の他には、例えば甲子園の西東京代表や、あるいは貧困層を助けるNPO団体とか、何かの差別をなくすNPO団体などもここに含まれるつもり。


一方、暗示的レペゼンとは、たいていの場合単なる個人であり、その本人も自分が何かを代表している、背負っているとは自覚していないことが多い。

しかし、その人のちっぽけで何の社会的意義もなさそうな(ある意味卑しい)達成や幸福が、単なる個人的なものには留まらないという性質がある。

先天的にそういう星のもとに生まれた人もいれば、後天的に何らかのトラブルに巻き込まれてそういう宿命になったひとも両方いそう。

この暗示的レペゼンの具体例が、前半のX氏の話ね。


暗示的レペゼンをしている人は、その個人的な達成や幸福(あるいは忍耐)をコミュニティに還元するための機能へ、人としての能力キャパシティの多くを割り振っているので、それ以外のことは苦手なことが多い。

一見すると、"ダメ人間"に見える。というか、そうとしか見えないことも多い。

普通の人が当たり前に毎日こなしていることをひどくめんどくさがったり、苦痛をより多く感じたりする。たとえばお風呂に入るとか、通勤するとか。

でもなんというか、その人以外にはできないようなタイプの他者への貢献ができる。歴史上の偉人の縮小版みたいな感じ。

その人が悩み苦しんだり、機嫌がよくなったりしながらも生きているということ自体が、コミュニティにとって特別な意味がある。


普通の人がやっていることをやらずに生きているということによって、一見するとサボっているようにも見えるんだけど、実は多大なる貢献をしている。そんな人たち。

こういう人達は、明示的レペゼンの人たちが主に取り組むような表面化している社会問題に対して、実は別の側面から取り組んでいる。同じく最前線で。

それはとても精神的で、無意識的で、でもすごく現場的で実践的で、人間の目をそむけたくなるような暗部や恥部に関わっていることが多い。光があれば影もある。それが人間。


地下水脈、下水道って感じ。やっぱり本人には、そんな役割を果たしている自覚がなかったりもするんだけど。

暗示的レペゼンの人の発信を見ていると、まるで他人事かのようにその人を叩くようなリスナーや読者も多いんだけど、実はその人の発信に触れることが受け手自身の中の問題とソフトに向き合うことになっていたりもする。

前半のX氏の配信なら、「孤独や停滞に関するセラピー」のように自分には感じられる。


余談と、自分の話

真面目な話は終わり。

ところで、上述のX氏の配信で、自分は感謝の意味で約1500円ほど投げ銭した。

自分みたいな質素な経済状況の人間が、ふつう何の見返りもなくお金を他人に渡さないって~。どう考えても良い奴でしょw 自分の活動ではろくに収益出せてないのにねw ここに書くのは0円だから書いておくけどw

今までは将来的に月1万円くらいでもいいから仕事にする気満々でやってきたけど、これからはおおむね単なる個人用アカウントとしてやります。全く展望が見えないので。


みんな目の色変えてmoney money money
でも金がなけりゃあ飯も食えねえ。


なのでもう、自分には背負えないものはもう背負いこみません。配慮しきれないものに配慮しません。ミスマッチを感じた方は、去ったほうがお互いのためになるのかもしれません。

今までは150%の力を出して書くことが多かったけど、これからは75%くらいの力で書くつもりです。

これも良し悪しで、いい感じに肩の力が抜けるといいんだけどね。数年続いた一つの季節が終わったって心境で、もう昔の自分とは違うのよ。

今回の話も結構わかりにくさあると思うけど、一撃で伝えられなくても繰り返して徐々に、ってことで。

関連記事「ダメ人間」にずっと救われてきた。彼らは、働かずに好き勝手していることで一つの重要な役割を全うしている。そんなダメ人間の良さを徹底考察する。


やさしい風ぬける昼下がり 虹がのぞいたこんな雨上がり
陽の光映した水たまり 日々の歓びここに賛美

(再び、Dragon Ash「Grateful Days」より。Youtube動画へのリンク


yo! というわけで、X氏が見せてくれた「心の光」のおかげで自分も、もう一度やってみようという気になったわけだ。今回はそんな感じ~

頂いたサポートは無駄遣いします。 修学旅行先で買って、以後ほこりをかぶっている木刀くらいのものに使いたい。でもその木刀を3年くらい経ってから夜の公園で素振りしてみたい。そしたらまた詩が生まれそうだ。 ツイッター → https://twitter.com/sdw_konoha