私は何かを殺さないために、何かを攻撃する文章を書いている

このnoteのタイトルを
私は"誰か"を殺さないために、"誰か"を攻撃する文章を書いている
にしようかとも思ったけど、
それだと特定の個人を攻撃しているかのような印象を与えかねないので今の形にしました。

私がnoteを書き始めた理由。内容的には"誰か"のほうに寄っています。ロック・アーティストが初期衝動を曲にぶつける、みたいな話です。

あるいは『若きウェルテルの悩み』において、主人公ウェルテルは自殺したけど作者のゲーテは長生きした、のような話です。


『自分が通った高校を再び訪れて感じた、複雑な気持ちと過去』から

このnoteは『自分が通った高校を再び訪れて感じた、複雑な気持ちと過去』の続きとしても書いていますが、独立した内容として読めます。でもこちらもよかったらどうぞ。

リンク先の前回のnoteの内容を振り返ると、「不安定な高校時代を送った母校を再び訪れたら、何か感じるものがあった」というものでした。

それを書いたモチベーションは、自分がnoteを始めた理由と原体験を記し、だから私はnoteやってんだ、と締めくくりたかったから。

……キングギドラの『リアルにやる』みたいにね(これから語っていきます)。


伝説的なJ-HIPHOP・キングギドラ『リアルにやる』

この曲は、伝説的なラッパーのKダブシャインとZeebraが、ラップを始める理由となった自らの原体験を語るという内容だ。

私はこれを聞いていて、自分もこういう構成で文章を書いてみたいと思った。まずは少し紹介します。

Kダブシャインは、「小さいころ病弱だった」「母子家庭でディスられ方も少しじゃねえ」「悪いことばっかりやってた」と語り、だからこそわかったことがあると言う。

そして以下のように締めくくられる。

全て強者が弱者を支配
殆どの奴には八百長試合
その下手な芝居 Fuck 偽善者
だから俺らラップしてんだ


かっけー!!気持ちいい!!」ってなる。マジでドープなラップだね。

(あまりラップになじみがない方も、歌詞を音読してみれば踏まれた韻の気持ちよさがわかると思います。
「Fuck 偽善者」に対する「ラップしてんだ」のように、韻の対応関係と意味の対応関係が重なると、言葉のパワーが強くなる。ぜひ原曲も聴いてみてほしい。)

あるいは「英才教育を受けて、何かのスポーツで優勝した」だと他人事としか思えないし全く響かないけど、こういう逆転があるとカッコいい。ストーリーの展開としても振れ幅が大きくなるしね。


あるいは一方、Zeebraはこう語る。

高校を速攻でドロップアウトし、行き場も夢もなくしかけてたときに聴いたラップが、自分を決定的に変えた。

聴けば聴くほど体から毒が出る
そんな気分の自分初めて会った
人生で初めて真面目になった

そして、「だから目の前にあるこのマイクを取る」と締めくくられる。


自分にとっての「聴けば聴くほど身体から毒が出る」もの

いやー、こういう感覚わかる気がします。自分と強く共鳴するものと出会ったときって、まさに「聴けば聴くほど身体から毒が出る」って感じです。

私にとってのこういうものは、今みたいなnoteやブログを書いたり、詩とか小説などの創作だと思っています。


ただ、それらと真剣に向き合い始めたのは20代以降であり、10代の頃には見つけられませんでした行き場や夢は早々になくしていましたが)。

それはなぜか?


そういうものと出会うための、妨げとなっている存在

こういうライフワーク的なものと出会ったり、さらには「天命を知る」みたいなことは今の日本ではとても難しいことだと思います。

私の場合は、受験勉強、周囲の雑音、社会の構造などが妨げとなりました。そして深く傷つきました。何度死のうと思ったかわからないくらいに。冒頭で紹介した前のnoteにも少し書きましたけどね(これも一部であり、全てはまだまだ書ききれない)。


「環境が悪い」というタイプの論じ方についてアレルギーを持つ人がいるけど、"汚染された土壌に花は咲かない"という現実があります。

「自分がやるべきこと・没頭できること」を見つけられなかった人たちが、さらに若い世代を叩いて「自分がやるべきこと・没頭できること」を見つけることを妨害しているようにも見えます。

「そんなに甘くない、現実を見ろ」
「お前には無理だ、諦めろ」「周りに迷惑をかけるな」
「(古い価値観を持ち出して)○○が出来て初めて一人前だ、そうしたら認めてやるからそれからにしろ」
「私が我慢しているんだから、お前も我慢しろ」

要は、「私が不幸だから、お前も不幸になれ」ということですね。よく色んなごまかし・嘘・偽善・演技が紛れ込みますが。


私はこういうタイプの発言をする人に、並々ならぬ憎悪と殺意を抱いていて、法律がなければ(あるいはきっかけさえあれば)本当に殺していたかもしれないと思うほどです。

(「どうやったらこいつをもっと不幸にできるんだろう」「どうやったら同じような妨害にあっている人たちと手を取り合えるんだろう」と四六時中考え、最大限の反撃を行ってきました。
反撃や復讐が何も生まないのはフィクションの中だけの話で、現実では超重要です。反撃を否定する人を見たら、その人は「悪いことをしているけど反撃されたくない人」「思考停止している人」「過度なストレスを抱えている人」ではないかをよく点検したほうがいいと思います)


しかし、文章を書いて表現することで、あるいはそういう人達が核心を突かれて顔を真っ赤にする様子に対して、「聴けば聴くほど毒が出る」という強烈な否定と肯定、鮮烈な癒しと快感を得ました。

そして今では、以前と比べてかなり落ち着いた心持ちで生きています。


「だから目の前にあるこのnoteに書く」

2017年のある日、今から誰かを殺しに行く代わりに作られたであろう攻撃的な音楽を聴きながら(大音量で脳みそから何かを追い出すかのように)、私はnoteを書き始めた。

ヘッドフォンから流れてくる激しい重低音と叫び声の主と同じように、音楽はできないけど自分も今から誰かを殺しに行く代わりに書いた。吐いた。書き殴った。キーボードを叩いた。一筋の汗がしたたり落ちた。


なぜそうしたかというと、特定の個人を攻撃することには個人的にそれほど意義を見出せないから(必要な状況もあると思うけど、あくまで個人的にその時はそう感じた)。どこか冷めていて不毛さを感じている自分がいた。

それよりも、特定の個人を介してこの世界に顕現した「悪しきもの」全体を叩きたいという気持ちがある。こういう宇宙的な観点、あるいは微生物的な観点が頭に浮かぶ。根源を潰さないと次から次へとまた出てくるような。

そしてこの形に一般化・結晶化させれば、同じような思いをした人達とそれを共有することができるというメリットもある。


こういうことがアートとして重要であると、私はとらえています。(芸術観)


これがタイトルにもした「私は何かを殺さないために、何かを攻撃する文章を書いている」ということの意味です。


正確にはその意味の半分。今回のは外向きなほうの意味で、内向きなほう(自分を殺さずに生かしていく)の意味で書いたものは無料マガジン「自己理解と内面の分析シリーズ」にまとめてあります。

興味がある方は、note公式ツイッターでも紹介された『人の名前を呼ぶのが苦手だった。そういう人いません? ……あと一人称についての戸惑い。』あたりから読むといいかもしれません。


……キングギドラほどスッキリとまとめられなかったけど(意味合いが複合的で混沌としているところがあるけど、実際の頭の中でもそういう感じ)、こういう経緯と理由で私はnoteを書き始めました。

最初期は小説と詩だけを書いていた。憎悪と苦痛を執念深く書きつけた。例えばこんな風に。


初期作(初めて1か月以内)から3作だけセレクトして、軽めに振り返る

まずは、なじみがなくてもさくっと読めそうなものから。

虹色の絵図』(詩)

悲嘆にくれながら、絶望を叫ぶ。

「虹色だ。ああ、美しい!」誰かが言った。
どす黒いガソリンのような化学物質が辺りに塗りたくられている
樹木に、草花に、岩肌に、地面に、小屋に、
それらが光を反射して虹色に擬態している
神の創作物の絶唱が響き渡っている
どこかの工場から この地に排出されたのだろうか
その工場は 何を呑み込んで 何を吐き出しているのだろうか
何を犠牲にして 誰のためのものを出荷しているのだろうか


多次元の朝』(詩)

音楽のアルバムのようにいろんな感情や感覚が含まれているほうがいいと思ったので、怒りとはまた違った気持ちを込めて繊細に書いた。初期作の中では「スキ」が一番多かった。

小さな宇宙には朝があった
全ての始まりの刻印として
空気の振動が停止した
一世一代の計りの朝
燃える恋でもしているのか
ダムが決壊したような期待があふれ出す朝
悪夢の続きを目覚めてなお見るような
冷暗室の悲鳴の朝
異邦の床で目覚めた
いつもとは違う朝と、いつもとは違う自分


鏡の中のアカノ』(小説、約8000字)

「死ね殺す死ね殺す殺す」と小学生でも書けそうなことを書いてもその言葉の表現力は弱いし、書いていてもスッキリしないので自分なりに考えた。少し長いけど内容も重量級。

文章の流れが淀んでるとか、書く対象といったん距離を置かないと本物らしく書けないとか、思うところはあるけど内容は気に入っている。諸々の問題は承知それでも放つ、全力の"Fuck you"。


その他の作品は、「自選集:詩 」「自選集:短編小説」にまとめてあります。よかったらこちらも。


自分の言葉でリアルに言う

こんな風に書き続けていたら、癒されてきました。

ロックだと「初期衝動」という言葉もあるけど、今はもう同じようなスタイルでは書きにくいくらいだ。


でもその代わり、新たに書けるものがある。

そして、こういう変化の過程を書いていくことも一つの面白みだと思っている。

他人の借り物の言葉による語りは見放され、自分の言葉でリアルに体験を語ることが必要になっている。

「どこ相手にしてもリアルに言う」
(キングギドラ、「リアルにやる」より)

だからやる、ノンフィクションのドラマを。

上映は、一回きりのリアルタイムで。


母校の校舎の池の鯉がとぽん、と小気味よい音を立てた。紫のすみれが絵の中の差し色のように、近くで存在感を主張していた。
ふと見上げると、柳が静かな風にさらさらと揺れていた。その柳はずっと昔から植えられていて、毎日毎日その緑を目にしてきたはずだ。しかし、その穏やかさを初めて見たような気がした。(自分の手記より)


(2018年5月4日の回はおしまい・明日へ続く。すげえ気難しい人みたいに思われてるかもしれないけど、リアルでは温厚です。あと、自己表現をしている人と、それを支えている人に対するリスペクトを持っています)

次回予告:『内向的な人間が、誰も傷つけない「内輪ネタ」で笑いを取るための具体的な2ステップ』(結構、力入れて書いてます。打倒五月病!!)


【今までは自分の話より、創作物全般の批評が多めでした】
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