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憎悪と上昇志向から、再会と和解へ

2016年~2018年、この二十代の三年間の自分を二つの言葉で言い表すとするならば、それは「憎悪」と「上昇志向」だろう。

――今まで自分を苦しめていた存在にやっと復讐できる。

僕にとって文章を書くということ、ネットで発信するということは、そんな武器を手に入れたような気持ちだった。


初めのうちは、一つ書く度にその武器は強化されていった。

「ひのきのぼう」から「どうのつるぎ」、そして「てつのつるぎ」へ。
みるみると成長していった。

今はまだ弱くて報われなくても、世間に自分の力を、自分という存在を認めさせることが出来るのなら安いものだと思っていた。


しかし、やがては壁にぶち当たる。自分の武器が「はがねのつるぎ」くらいになり、冒険できるエリアも広がってきた頃だったか。

広いネットの世界には、自分よりもはるかに強い人間が山ほどいた。

どんなに努力したところで勝てない相手がいて、どうしても勝ち取れないポジションがあった。


その力量の差は、とにかく努力し続ければたいていの物事は解決するという、無邪気な物語を却下するのに十分なものだった。

何も知らなかった頃ならともかく、ある程度続けていれば自分にできることとできないこと、伸びる箇所と伸びない箇所が誰にだってわかってくるはずだ。


この「壁」が、2018年後半に僕が抱えていた絶望だとも言えるかもしれない。


2019年、「再会」と「和解」へ

そして2019年の自分を二つの言葉で言い表すとするならば、それは「再会」と「和解」になるだろう。きっと。

別れも告げずに去った場所、縁を切った友人たちと、再び会うということをしている。近頃は。

あるいは、何にもすごくない何者でもない、ただの自分のままで歩き出そうともしているのかもしれない。


それらはあくまで「再会」「和解」であり、自分に既にあるものを肯定的に捉えなおすということであり、強く強く思い描いていた理想を現実にして救われるということではない。

自分の現状に満足するということだ。


相変わらず僕は独りで慎ましく暮らしているだけで、具体的な何かを手に入れたとか、何かが大成功したとか、そういうことは特にない。


これまでは自らの尖っている箇所をさらに鋭く磨き上げ、どこまで毒々しく、感情的に、力強く自己表現できるかということに挑戦していた。

しかし近頃は、白紙に向かえばまた違った自分に出会うことが多くなってきている。


リアルの人間関係と繋がっている自分のツイッターアカウントでは、「~が楽しい」とか「~に感謝」というつぶやきが自然と少し増えたことに気づいた。

それと同時に、2018年のnoteでの自分は、いつのまにか徐々に自分で嫌っていた人物像に接近してきていたんじゃないかという疑いを抱いた。

そう考える度に胸が苦しくなった。


粗探しは良くないと言いながらも、自分自身が粗探し的でネガティブな発想に囚われていたのかもしれない。それはやられたのと同じやり方でやり返したいという無意識の叫びだったのかもしれない。

それもそれで他人からすれば迷惑なことだったのかもしれないけど、「虐待された子どもがやがて親になり、さらにその子どもに虐待する」のような、取り返しが容易には出来ないことをしたわけじゃない。

だから「まあ仕方ない」と思うことにした。


自分を責めても何も生まれないし、誰も得しないということも身体的なレベルで理解できた。

どんなにちっぽけでも、醜くても、その現状の自分を認めないことには、その上に積み重ねていけないということも理解できた。

そして自分には何が出来て、何が出来ないのか。何に喜びを感じ、何を悲しむのか。何に力を入れれば効果的に結実しやすく、何に力を入れれば無為に跳ね返されるのか。そういうことも掴み始めてきた。


今までの自らの行動が、どんなに馬鹿げていても、間違っていても、幼稚だとしても、それら全てが必要なプロセス。避けて進むことは出来なかった。


誤りに満ちた馬鹿げた話の内容。
これまでに吐き出された刺々しい言葉達。
今やそれすら愛おしい。

その間違いこそが、その時しか出来なかったことなんだろう。


ぶっちゃけ なんか成功ってつまんなそう
まだしてもいないのに不安だよ
今しか見えないものがある気がするから
TシャツにVansで歩き出す

(ZORN/Walk This Way feat.AKLO、>>YoutubeのPVへのリンク


自分にしか出来ないことを成し遂げたい、
でも凡庸な能力しか持たない、
逆転できない、逆境をひっくり返せない、
そんな絶望の果てに。

その過程こそが、自分にしか歩めない道だったということに気づく。
それはまだまだ途上で。



(より詳しいところ、この話の具体的な細部に関しては、このノートの末尾に提示したいくつかの関連記事を読んでもらえれば)


どうしても越えられない壁を越える方法

自分にとってのリアル(本物、真実、現実...etc)であること、高い価値を置いていること、それは「正直」であることだったのかもしれない。

自分に正直であること、他人に正直であること。


それは昔僕の近くに居た人達がひどく軽視していたことであり、自らも出来なかったこと。この価値観や感じ方はその反映でもあるのかもしれない。

卑怯な手で陥れること、
心にもない言葉で他人をコントロールしようとすること、
見栄を張るということ、
勝手に他人を理解した気になって決めつけたり上から目線で語ること、
良くないものを良く見せかけること、
本当は悪くない存在を八つ当たりで責めること、
他人のためと口では言いながら自分だけを満たそうとすること、などなど。

そういう嘘偽り(フェイク)が、他人を害し私利私欲のために用いられることが心底嫌いだ。


それぞれが正直でいられるなら、考え方や感じ方が違っていていいし、間違っていたり程度が低くてもいいのかもしれない。

今まで自分が支えられてきた存在は、そのほとんどがまったくもって高潔な人格者ではないけれど、自らの中にある醜さや汚さを隠すことなく広く公開していた。

小奇麗に立ち回る普通の人間達が敵に見えたこともあった。彼らが垣間見せる狡さが何よりも嫌いだった。

世間的にはどう見てもクズ、と見られる人間がそのままで生きている姿に何よりも救われた。



こんな風に思えたことで、また一つ壁を越えられたような感覚になった。


そして、自己満足みたいな自分の話ばかりしてきたこの場所に、お付き合いいただいている方々へ、どうもありがとうございます。

さらにその機会と場所を与えてくれたnoteにも感謝を。


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