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第四章①:32歳~ 東日本大震災と なんだかんだ幸せだった10年、そして奈落の底へ 【 波瀾万丈な半生を歩んで、人生折り返し地点でようやく立ち上がるまでのお話 】

KINGです。おはこんばんちは。

さて、第三章までで

  • 31歳にしてバツ2になる

  • パニック障害は酷くなる一方

  • 解雇されるという形での失業

と、なかなかの波瀾万丈っぷりを発揮してきましたね!

では、続きを書いていきますね。
どうぞ駄文にお付き合いくださいませ。



◆ 元カノとの再会、相変わらず…

解雇はされたものの、会社都合の扱いにしてもらえたお陰で失業手当もすぐに支給が開始し、この時はショックが大きかったのもあり 失業してすぐに次の職探しを!とはなれなかったのですが、なんとか生きていました。
数週間、いや 1ヶ月ぐらいは、そんな宙ぶらりんな感じで抜け殻のように過ごしてたかな…。
退職したのが 2月、なので、3月ぐらいのタイミングでしたかね。その年の正月に届いたけど 全然見てなかった年賀状を、ふと眺めてたんです。
その中に、いつもなら届かない人からの年賀状がありました。元カノ(D子さん:仮称)からのものです。

俺と付き合っていたタイミングとしては、俺が既にバツ1になっていて、役者から正式に IT系へ就職する前の、バイト時代。同じバイト先のバイト仲間だったんですね。
実は、その時点で D子さんもバツ1で、最初の結婚の時に授かった赤ちゃんを、医療ミスがあったのか無かったのか 生きて産んであげられなかったという過去を背負っている人でした。(何年も掛けて病院相手に裁判までしていたらしい。結局、敗訴にはなってしまったそうだけど。。)
そして、俺と付き合ってた時期があって、その後 再婚して、今度は無事に 息子(E太郎くん:仮称)を授かることができ、でも その結婚も上手くいかず、俺と同じくバツ2になっていました。
年賀状は、その E太郎くん(当時5歳)の可愛らしい笑顔の写真が中心に据えられた、シングルマザーとして頑張っていることを想起させる、なんだか心が温まるものでした。

風の噂でバツ2になったことまでは知っていたのですが、別れてからは こっちから連絡することはほぼなかったんです。(自分からフったので。。)
でも、この時は 何故か自分から連絡したんです。誰かに頼りたかったのもあるんでしょうか…。
何回かメールのラリーをし、その中で 実はD子さんも軽いパニック障害持ちなんだと言われ、向こうから電話がかかってきて。
俺の今の症状についてや、いつからこうなったのか、これまでどう対処してたのか、色々話してる内に、直接会って 色々話そうとなりまして。

で、その日。
D子さんは地元である埼玉県の実家のすぐ近くに住んでおり、その日は E太郎くんを親御さんに預けて会いに来てくれるとのことで、俺がなるべく近くまで行くわぁってことで 大宮で会うことにしていました。
大宮駅に着いて、待ち合わせ場所に指定されてた近辺を見回しても まだD子さんは到着していない模様。
少しソワソワ、若干の緊張もしながら、辺りをキョロキョロ見渡していると、遠くから急ぎ足でこちらに向かってくる、見覚えのある姿が目に入りました。
D子さんも実は、元々モデル事務所に所属していた時期があったりした 女優を目指していた人なので、まぁ言ってしまえば美人さんです。
『(当時、なんで俺からフったんだろな…)』
と 過去の自分をバカにするほど、胸が高鳴ってしまっているのを自覚しました。もちろん、平静を装いますよ。全力で! 男ってバカよね!!

E太郎くんを迎えに行く時間が決まってるから と、その日に俺のために開けてくれている時間はそう長くはなかったですが、そんな中でも 意味のある再会にしようと、
積極的に行き先とか決めてくれて(俺、大宮来たの初めてだったので…)、食事したり、散歩したり、お茶したりしながら、たくさん、もう たくさん話しました。

そう言えば、以前に付き合った時も、D子さんの方が俺に惚れてくれて 職場友達を介してコンタクトを取ってきてくれ、
初めてのお出掛けで メチャクチャいっぱい話して、その日の内に
『こんなに気の合う女性は なかなか居ない!』
と感じたし、俺も好きになって 付き合ったんだったなぁ。

…はい、もうお気付きですね? 今回も この日1日で、焼け木杭に火が点いちまいました。
それは D子さんも同じだったようで、帰り際、すげーゆぅ~っくり歩きながら 駅のホームまで行きかけてるギリギリのタイミングで立ち止まり、再交際を申し込みました。
即、OK いただきました。

で、その日は帰宅し、それからはまた交際相手としての連絡を取り合ってたんですが、なんせ元カノなもので。既に相手のことをある程度深いところまで知り合ってる段階からなので、展開も早くて、、、(ココ!、これがタイトルにある『相変わらず』なところ!)
なんでだったか 定かじゃないけど、同棲する方が都合が良いよねって話になって、D子さんは E太郎くんのこともあるし、親御さんのサポートが得られやすい今の家がベストだろうし、俺は定職があるわけでもない一人暮らしの荷物も少ない状態だし。
ということで、俺が家を引き払って 家財もほぼ全て処分し、D子さんの家に転がり込む形で一緒に住むことになりました。

幸い、E太郎くんも こうして【ママが好きな人が 自分に近しい距離まで踏み込んでくる】ことに慣れているようで(笑)、懐いてくれてホッとしながら、親御さんとも仲良くさせてもらって過ごしてました。
D子さんも軽いパニック障害を持っているので、実は今の職場まで電車通勤してるのも結構ツラいというのがあって(あ!そうだ、これが同棲の理由だった)、一緒に通勤できるよう 俺も同じ方面に通勤できる派遣の仕事を探して、ちゃんと働きだして。
(前にも書いたように、
 安心できる人が一緒だと パニック発作を抑えられるもんなんです)

ほいで、相変わらずの展開の早さですが、再交際を始めてまだ 2~3ヶ月の頃には、お互いに結婚する気持ちを共有してて。
お互いに 3度目の結婚になるわけだし、そんなホイホイするもんじゃねぇ!ってのは 2人とも分かってはいるので、お互いの両親への報告はどのタイミングでするかとか、そんなことを色々探ったりして。
で、まずは D子さんの親御さんにご報告&許しを請いにお伺いしまして。案の定、お互いに二度失敗をしていることも気に掛けておられたし、初めこそ眉間にしわを寄せてましたが、それでもそれまでの同棲してる様子なども見て知っておられる中で 次第に認めてくれ、許しを得ることができました。
次に、ウチの親ですが、愛知なので直接会いには行けませんでしたが 電話でしっかり説教食らいながら話し込み、D子さんとも E太郎くんとも話してもらい、許してもらいました。
(「今度もしまた離婚したら、もう愛知に戻ってきなさいよ!?」と、
 俺にだけ釘を刺されましたが。。)

そんなこんなで、お互いの両親も公認の婚約者になれたーって その一週間後ぐらいだったかな?
なんと、なんと…、D子さん、……妊娠してることが発覚っ!(マジか)
女性はそういうの分かってるはず とか言いますが、マジで本人も気付いてなかったみたいで、せっかく許しを得た親御さんに「ホントは先にできちゃったからの結婚申込だったんじゃね?」と、軽く疑われてしまったり(汗)

まぁでも、実際に本当にそういうわけじゃないし、結婚することを決めている間柄で 子を授かったことはめでたいことに変わりはないわけで。
式こそ挙げなかったけど(実は俺、3回も結婚してるのに 式は挙げたことがない…)、ウチの家族も埼玉まで出張ってもらい 結納もし、
晴れて 3回目の結婚をしたのでした。32歳の時でした。

正式に E太郎くんも養子縁組し、本当のパパになり。E太郎くんも「パパができたー!」と喜んでくれて、嬉しかったですねぇ。
程なく、赤ちゃんも産まれ、その娘(F子ちゃん:仮称)と 4人家族になりました。


◆ 未曾有の大災害! 家族を襲う不調、決意

当然 出産の前後は仕事を辞めてしまっているD子さんの分まで 自分が稼がねばなりませんから、その頃には再就職も果たしてます。
その時の職場は、都内、有名な?霞が関ビルの中でした。

慌ただしくも幸せな生活を送っていると、その日は突然やってきました。。

東日本大震災、発生!!!

霞が関ビルの高層階に常駐している席がありましたので、突き上げるような大きな震動の後、延々とビルがゆっくり横揺れし続けている感じが、
とても不気味であり、…酔いもしました。。(あ、言ってなかったですが、パニック障害とか関係なく、子供の頃から車酔いが激しい人で、今でも全く変わりません。。)
全員がすぐに仕事の手を止め、デスクの下に身を隠してましたが、
ビルの横揺れはしてるけど地震自体は まだ第二波が来てないのを確認して、
一斉にTVを点けて震災の状況把握に。
震源地は東北の方であること、津波の被害が出そうであること、各地の震度がどれぐらいだったか。情報が錯綜する中、それぞれ家族の安否確認などで廊下に出て電話をかけたりしていました。

俺も電話をかけるためフロアから廊下に出ると、いつまでも横揺れしていた霞が関ビルの廊下には 至る所に大きな亀裂が入っていました。。
こんな時だから電話繋がらないかも…と思いましたが、幸い連絡が取れ、
家族はみな無事だという確認が取れて、まずは一安心。

その頃には帰宅を勧める案内も出ており、続々と帰路に付く同僚達。
どうやら公共交通機関は軒並み運行停止しており、徒歩で帰れなくもない距離の人達から帰ってる模様。
俺は、埼玉の中程にある市から都心まで通勤している身であり、さすがに徒歩では帰れない…。一旦職場に留まり、状況を見ながら動くことに。

TVからは信じられないような映像が飛び込んできた。映画か何かのシーンだろうか? そうでなきゃ、こんなこと本当に起こっているのか!?
津波で、東北の街々が 人々が、あっという間に押し流されていく状況を目の当たりにして、この地震の引き起こした災害のとんでもない大きさを、身震いするほど感じました。

その日は結局 翌朝まで職場で過ごし、家路に着けるまでの電車が動き出していることの確認が取れたので、ようやく帰宅しました。
東北の方々には心よりお悔やみ申し上げながら 家族の無事を皆で喜ぶのも束の間、なにやら更に不穏なニュースが…。
どうやら東北の原発が…、なんだかヤバいことになっているらしい と。。

それからの日々は、D子さんは 身の回りの放射線量の計測結果を調べたり、食材の産地を一番に気にしたり、
とにかく子供達の将来のために 少しも被曝させないために、出来得る限りの手段を講じて生活するようになりました。

TVでは、放射線量は安全な数値の範囲ですとしか言わない。東日本の住民がパニックに陥るから。
周りにも、被曝を恐れて生活している人なんて まず居ない。
まだそんな時期でした。

しかし、気をつけて生活していても、家族に、俺以外の D子さん、E太郎くん、F子ちゃんの全員に、恐らく放射能の影響と思しき不調が現れ出したのです。
それぞれ、止まない頭痛だとか、連日の下痢だとか、理由があって泣くはずの幼子が 何をしてもいつまでも 今までにないほどのギャン泣きを止めてくれないだとか、顕現している症状は異なってはいたけれど、明らかに原因不明の、目に見えない何かが及ぼしている症状だと、思いました。

D子さんからの強い希望でもありましたが、俺自身も 絶対にそうすべきだと感じたので、同意して決意しました。

『 家族全員で、避難しよう 』

なるべく遠く、東北から遠くに。
そして、今後のもしものことを考えて、現時点で大きな原発が既にある地域からも なるべく離れたところへ、、
そうして、我が家の避難先を、縁もゆかりもない 広島に決めたのです。
(世界で唯一の戦争被爆国であり、その被爆地の1つでもある広島なら、
 万が一の際の 放射線被曝関連の病院とかにも 強いかもしれない
 という素人考えも、大いに関係しました)

会社に『被曝からの避難で、広島に引っ越すことにしましたので』と、
退職願を出しました。
先にも書いた通り、まだ被曝とか気にしてる人なんて殆ど居ないタイミングです。ぽかーん でした。引き留められもしましたが、断固として拒否。
関東の地から広島での職探しをしながら、結局 仕事を決め切れていないタイミングで、駆け足で広島へと居を移したのです。
時は 2011年7月、34歳のことでした。


はい、第四章も続きます。
お次は

で、お会いしましょう。
続きはどうなることやら、、、

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