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靴ひも~東日本大震災に寄せて~

「孝之様、孝之様。診察室へお入りください」

少しホコリをかぶり、古ぼけた様子の黒いスピーカーから音が放たれ、こじんまりした受付ロビーにホワンと響く。全部で6席の椅子から、三十代前半の細身な男性が立ちあがった。抱え込んでいた灰色の小さめなリュックと茶色の薄いダウンジャケットを持ち直し、診察室の扉に近づいていく。診察室のドアはノブを右横に軽く押せば開く仕組みになっている。男性は慣れた感じで2回ドアをノックし、診察室のドアを開けて中に入っていった。

「失礼します」

小田孝之は、紫と青のチェックのコーデュロイワイシャツと浅い青色のジーパンで身にまとった高村義彦の姿を見ると、いつも通り挨拶して、入り口横にある白いカゴにリュックとダウンジャケットを置き、義彦のデスク近くにある白い丸椅子に腰かけた。義彦はピンク色の4色ボールペンを持ち、室内用サンダルを履き直しながら、デスクに置いてあるカルテを確認している。

「具合は、いかがですか?」

「薬が効いているみたいで、食欲が大分快復しました。ご飯を美味しいと感じます。あとは…睡眠も5時間ぐらいで…」

義彦は体調を説明する孝之の表情や様子をチラチラ確認しながら、紙カルテにペンを走らせていく。近年は電子カルテで管理する医師がほとんどだが、義彦は一貫して紙カルテにこだわっていた。電子カルテだと管理は楽なのだが、キーボード操作とパソコン画面に意識が向き、患者の微妙な変化を見逃してしまう。反面、紙カルテだと管理は面倒だが、患者と向き合い、対話しながら記録を残せる。診察する上で最も大切なのは対話だ。それに大事なことは大抵面倒臭い。一日中ペンを走らせているので毎日手は疲弊するが、それでも義彦は紙カルテを愛用していた。

 義彦が院長を務める『いこいメンタルクリニック』では数百人の患者を抱えており、今もなお受診予約が殺到している。新規患者で次に受診予約できるのは最短1カ月後だ。それだけクリニックの数も、精神科医も看護師も不足している。

 2011年3月11日、東日本大震災後、患者数は膨大になった。津波によって家族、友人、恋人を失い、住む場所もしごとも海に流され、仮設住宅で先の見えない毎日を過ごす日々。肉体だけでなく精神的負担が被災地の人々の心を逼迫させるのはわかりきっていた。

 幸いなことに『いこいメンタルクリニック』は津波の被害を受けず、建物が倒壊することもなかった。散らばったカルテを片づける程度ですぐに診察を再開できたのだが、代わりに待っていたのは、他医療機関の閉鎖や移転に伴う、業務量の過剰増加。義彦自身もうつ病経験者であり、時折訪れるうつ症状に苦しめられているが、これは自分に課せられた使命なのだと言い聞かせ、現地に残って診察を続けている。

 義彦は孝之の話に目と耳を傾け、一心不乱にペンを走らせ続けた。孝之が最後の《。》を言い終わるまで全神経を集中し続ける。

「今のところは…こんなところですかね…」

最後の《。》を言い終えたな、義彦は孝之の表情や様子から判断して、一旦ペンを置いた。話を聞いている限り、悪化はしていない。食欲も前回に比べれば快復して、むしろ全体的に好転しているように感じる。良い兆候だ。

心の中で少し胸を撫でおろし、義彦は孝之に問い掛けた。

「最近、何か変わったことはありましたか?」

診察の最後、念のため全員に尋ねている質問だ。この質問で患者の生活環境も見えてくる

「…靴が、見つかったんです」

「靴、ですか?どこかで無くされたんですか?」

「ああっ、すいません、そうじゃないんです」

孝之は少し照れくさそう表情を浮かべて、顔の前で横に手を振った。

「娘の、愛美の靴が見つかったんです」

「娘さんの?」「ええ」

小田愛美は、孝之の一人娘だ。自宅にいた妻の小田恵と津波にさらわれて行方不明。家も流された。孝之は家族と住まいを失い、深い絶望と喪失感からうつを発症、しごとは建物破損による移転だけだったため失わずに済んだが、今は休職して仮設住宅で日々を過ごしている。

 孝之は下を向いて一呼吸し、再度、義彦を見つめて話し始めた。

「現場でボランティアしている方が見つけて、わざわざ持ってきてくれたんです。これ、もしかして娘さんのじゃないですか?って。左足側だけだったんですけど、すぐに愛美のだってわかったんです。靴は安物だけど、靴ひもは恵が編んだものだったので。愛美の名前も入った、特製の靴ひもなんです。愛美はすぐ靴をどこかに置いてきてしまうから、どこに置いてきてもわかるようにしておこうって、恵が一日かけて編んだんですよ。たくさんの色のひもを使って、カラフルで、綺麗で、可愛くて。靴に着けて愛美に見せたとき、愛美が大喜びしてたのを、今でも覚えています。いやぁ、愛美が帰ってくれたようで嬉しくて、ボランティアの方に何度もお礼を言いました。今は仏壇に飾ってあるんです。…………あの日、津波が襲ってきて……人も、家も、花も、木々も…何もかも………何もかも流されて………失って………もうどうしていいのかわからなくなって……生きることを諦めようとしたときがありました……。ロープを山から拾ってきて、部屋に括りつけて。でもロープに首をかけたとき、思ったんです。これで二人に会いに行ける。でも……でも会ったときに、二人は喜んで迎え入れてくれるのかなって………。きっと怒鳴りとばされるなって、思ったんです。愛美はわからないけど、特に恵には。アンタ一体何考えてんのよ!私達がそんなこと望むとでも思ったの!?って。妻は僕と違って勝気な性格でねぇ、思ったことや感じたことは何でも口にするタイプでしたから。だから敵を作ることも多くて、困るときもたくさんあったんですよ。でも不思議と気が合って、結婚したんです。………二人の顔を、恵の顔を頭に浮かべてたら、わざわざ死んで怒鳴られにいくのもなぁと思い始めて……それで、そのときは死ぬのをやめたんです。…………うつになって、今でも症状は辛いし、職場仲間と会う元気も勇気もありません。しごとへの意欲も……湧いてきません。仮設住宅からいつ出られるのかも、これから自分がどうなっていくかもわからないままで、不安で………正直毎日不安で仕方ないです。でも、周りの人に支えられて、こうしてどうにか生きています………ちょっと前までは髪もボサボサで、ヒゲも伸びっ放しだったんですけど………同じ仮設住宅に住んでる理髪師の方が定期的にカットしてくれて。丁寧にヒゲも剃ってくれるんです……このまんまじゃ腕がなまっちゃうし、こっちもありがたいよって言ってくれて、タダでやってくれました。その方の笑顔がとても柔らかくて………今は生きていればいいかなぁとようやく思えるようになったんです」

「……………」

「生きることは…辛くて…苦しくて…悲しいですけど………でもきっと恵も愛美もそれを望むだろうし………」

孝之はもう一呼吸して、一瞬唇を噛み締める仕草を見せたかと思うと、微笑んだ。

「それに……第一生きていないと、二人の供養もできませんから」

最後の《。》がフワリと、診察室に解き放たれた。たくさんの言葉が宙に浮かび、色を帯びている。言葉と言葉がぶつかり、融合し、新たな色をまた描いている。宇宙に浮かぶ惑星が、たくさんに生命を生み出し、カラフルなように。

「……そうですか…………」

義彦はペンを取ることすら、もうしなかった。

「……そうでしたか………」

刹那、義彦は目をつぶり、ゆっくりと開けていくと、自分の中に湧いた言葉と感覚を紡いでいった。

「医者というのは…随分と無力な生き物です。できるのは、皆さんから症状や悩み、話を聞き、薬を処方することぐらいです。僕には何もできないんです。皆さんの悲しみを拭いさることも。痛みや傷を取り除くことも。精神科医として十数年やってきていますが、誰かを救えたという実感も未だに湧きません」

「そんな……そんなことはありません!!だって先生は――」

「いえ、いいんです。自分のことは、自分が一番わかっています」

義彦はニコリと微笑んだ。

「自分は何のためにここにいるのか。それがわからなくなるときもあります。生きることは理不尽で、不条理です。それでも生き続けて、ここに骨をうずめる覚悟でいます。皆さんのために一体何ができるのか、わからないですけど……ただ」

義彦は孝之の顔を真っすぐに見つめ、力を込めた。

「【ただここにいる】ことを、できればと思っています」

「…………先生……………」

孝之の心から、蓋をしてきた感情が怒涛のように溢れ、こぼれ始める。体が奥から熱くなり、気付くと涙をボロボロと流していた。自分でも顔がぐしゃぐしゃになっているのが分かる。流す悲しみは、必死に堪えてきた辛さと苦しみを強く帯びていた。

「……ありがとうございます………ありがとうございます………!!」

孝之はウグッ、ウグッと嗚咽しながら、少しゴムの伸びたトレーナーの袖で涙を拭い続けた。ギュッ、ギュッと顔をトレーナーが擦れる音と、孝之の嗚咽が混じり合う。その音は共鳴しあい、悲しみの足音に変わって、診察室を通り過ぎていった。

 顔が真っ赤になりながらも、涙が止まり始めた孝之は少し我に帰り、恥ずかしくなってしまった。

「すいません、急に」

「いえ、いいんですよ」

孝之が照れ笑いを浮かべると、義彦はニコリと頬笑みを返した。

「薬は前回と同じ分量を処方しておきます。何かあればいつでもきてください」

「はい、ありがとうございます」

孝之は椅子に座ったまま一礼すると立ち上がり、カゴに置いたリュックとダウンジャケットを取って、診察室のドアを開けた。振り返り際、もう一度義彦の顔を見つめ、微笑んだ。

「ありがとうございました」

義彦が椅子に座ったまま笑顔で一礼を返すと、孝之の姿は診察室の横に閉じていくドアで、見えなくなっていった。

 診察室がしんと静まりかえる。騒がしいぐらいの静寂に耳を傾けてみると、先ほど宙に浮いていたたくさんの言葉は、悲しみの足音と共に消えていったのがわかった。

 義彦は孝之のカルテを棚にしまい、次の患者のカルテを取り出し、デスクに広げた。

 デスクに置いてある写真立てを見つめる。

「あなたは、それでいいのよ」

 津波にのまれ、もう逢う事は叶わないであろう、写真の中で微笑む妻が、そう言ってくれている気がした。

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