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「エロい絵を見て自慰をする権利」は基本的人権の根幹の一つである

最近、表現の自由に関する議論として、「エロい絵を見てシコるだけのことに『表現の自由』といった大仰な権利を持ちだすな」という意見を目にするようになってきた。私はこれに対して違和感を持っている――というのも、「エロい絵を見てシコる権利」は歴史的に見て自由権・基本的人権の根幹をなす権利であると思えるからである。

「キリスト教からの自由」としての自由権

近世初期の西欧では、カトリックを押し付けようとする君主とプロテスタントの信仰を求める大衆の間の血で血を洗う戦争が起こった。フランスのユグノー戦争(1562-1598)、オランダの八十年戦争(1568-1648)、ドイツの三十年戦争(1618-1648)などは長期に渡り西ヨーロッパを徹底的に荒廃させた。

これらの戦争における大量の血で贖われたのは、君主から宗派(カトリック)を強制されない権利、すなわち信教の自由である。ヨーロッパにおける(君主とて侵害できない)個人の権利、基本的人権という観念が確立されたのはこれらの戦争の帰結であり、「キリスト教を強制されない権利」は人権思想のルーツである、というのは近代憲法学の基本のキとして説明されるところである。

ヨーロッパ諸国では、信教の自由はカトリック教会からの人間精神の解放を求める闘いの結果として確立された歴史があり、それは精神的自由そのものの希求として、近代の自由権確立の原動力となった[2]。このような背景から、近代憲法は例外なく信教の自由を保障する規定を盛り込んでいる[2]。

信教の自由 - フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
[2]樋口・佐藤・中村・浦部『注解法律学全集(1)憲法I』青林書院、1994年。ISBN 4-417-00936-8

キリスト教は禁欲主義的であり、性欲にも否定的である。ここからキリスト教の性愛忌避を中心に話を進めていくが、この稿全体で「人権思想のルーツはキリスト教からの解放であり、すなわち『性愛を悪としエロい絵を見て自慰をすることを罪とした信仰』から脱却してもよい権利が基本的人権の根幹にある」というテーマで話を進めていく。

性愛を悪とする禁欲主義としてのキリスト教

キリスト教は原則として禁欲主義的である。——などとと書くと、現代の柔軟になったカトリックなどから苦情が出るかもしれないが、貞潔(Chastity)の概念はあるし、モーセの十戒にある「汝、姦淫することなかれ」が廃れているわけではなく、そして歴史的には今では考えられないレベルで禁欲主義である。

一例を挙げよう。現代でも修道女は頭巾(ウィンプル)をしていることが多いが、ミレーの絵に見られるように歴史的には女性は髪を隠すのが身だしなみとされていた(当時は男性も帽子をつけるのが身だしなみのことが多かったが)。これはイスラム教におけるヘジャブ(ブルカなど)と同様のものである。現代でも修道女の衣服を見れば、髪を隠しボディラインを消すようにできており、ブルカにチャードルをつけたイスラムと似た印象を受けるだろう。少なくとも前近代のキリスト教における女性の扱いは、現代のイスラム教と大きく離れるものではなかった。

修道女 : フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
ジャン=フランソワ・ミレー『刈入れ人たちの休息(ルツとボアズ)』1851-53年。

キリスト教では新約聖書の内容から内心の性欲にも否定的なので、自慰も忌避の対象となる。「自慰(オナニー)は罪ですか」という質問はキリスト教では定番であり、それに対する教科書的答えは新約聖書を典拠として「自慰に至る過程において、心の中で起っていることは罪」とするものである。「内心の欲情自体が罪」「したがって他人を性的に見るのは罪」というのはキリスト教保守道徳そのものと言ってよい。アメリカでこういうことを言う人の過半数は、トランプを熱狂的に支持する宗教保守になるだろう。

27『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 28しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。

(マタイ5:27-28)

また、キリスト教はかなり父権主義的な傾向が強い。そもそも「父なる神」を信仰しており、カトリックは聖職者に男性しか認めておらず、教皇=Papa、司祭=Father(神"父")等「父」として扱っている。歴史的には、キリスト教は、「娘の性欲を否定して頭巾をつけさせる父」としての側面があり、基本的人権としての信教の自由は、女性をそこから解放するものでもあった。

キリスト教保守道徳に支配されていた表現の世界

世俗化が進んでいない当時は、創作・絵画も、当然ながら禁欲主義的な保守道徳が支配していた。当時の絵画は、裸婦画も原則として「神話の出来事を描いた」という言い訳のもとに成り立っており、実在の女性の裸像を描くことはポルノでありはしたないとされていた。ゆえに、エドゥアール・マネの「オランピア」「草上の昼食」は明らかに現実の女性の裸を描くことでこの常識に挑戦し、絵そのものがスキャンダルとなったわけである。

エドゥアール・マネ『オランピア』1863
エドゥアール・マネ『草上の昼食』1862-1863

「内心の欲情自体が罪」「したがって他人を性的に見るのは罪」という考えを、実在を伴わないただの絵に欲情することに敷衍するのは、いかにもトランプのコア支持層のキリスト教保守が好みそうな発想である。少なくとも歴史的には、そうであった時代のほうが長いのは確かだろう。これが実在の誰かを撮影したものならば、例えばその被写体が子供ならば「性虐待記録物」として扱うというのは分かる。しかし、絵を見て欲情をすること自体を罪とするのは、基本的人権が否定した父権主義的キリスト教保守道徳そのものに見える。

女性が多数派であるコミケーー「貞淑たれ」という規範から解放された世界

ツイッター界隈で表現の自由の争点となっているエロ漫画の分野の話に移ろう。エロ漫画が大量にやり取りされているコミックマーケットも、始まった当初は「参加者の90%が、少女マンガファンの女子中・高校生。以後しばらくはこの状態が続く」というほどに女性のイベントだった。現在でも参加サークルは女性のほうが多く、2011年調査で65.2%が女性(メインの)サークルとなっている。

これらで出展されている同人作品の一定割合は、純粋にポルノである。その昔は「ヤマなしオチなしイミなし」の略で「やおい」と呼んでいたように、ストーリーはどうでもよくてとりあえずセックスシーンがあればいい、というような作品が一定割合あり、自嘲的なジャンル名としてそう呼ばれていたわけである。

そもそも、女性向け作品は一般の少女漫画でも恋愛要素が(少年漫画が放っておくとバトル物になるのと同レベルで)高頻度で入ってくるし、その延長線上にあるティーンズラブ・レディコミ雑誌ではセックスシーンも普通に入ってくるようになる。

すなわち、女性も普通にポルノを生産し、消費する。そして、身を晒すことなく性欲表現できる絵は重要なメディアとなっている。

――そして、このようなことが可能になったのは、「女性は貞淑であれ」と強制して頭巾をかぶらせ、自慰を禁じ、ポルノの絵を怪しからん、罪だとして追放しようとした、家父長制的キリスト教道徳に対して抵抗できる、基本的人権としての表現の自由が確立されたからである。

「表現の自由はエロい絵を見てシコるためにあるんじゃない」というのは勘違いも甚だしい。ここまで説明した通り、君主が強制してくる父権主義的キリスト教の保守反動"道徳"思想をはねのけるために自由権は生まれた――ひいては基本的人権のルーツとなったのであり、(女性を含め)エロい絵を見てシコる権利はまさに精神的自由権——すなわち信教の自由、表現の自由、内心の自由——および基本的人権の根幹近くに位置しているのである。

「エロい絵を見て自慰をする権利」を否定するということは、すなわち信教の自由を含む基本的人権を憎むキリスト教父権主義的な反動保守思想を復活させようという動きに他ならない。もしだれかがそういった無自覚な保守反動主義者なのであれば、憲法学や基本的人権の教科書をちゃんと読み直し、人権が分かってない反動主義者としか思えない言動を恥じて反省してほしいと思っているところである。

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