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[掌編]御國の爲のボランテイア地獄

猛暑にすつかり參つて居間でスマアト・フオンを弄つてゐると、インタア・フオンが鳴りました。私は戀人との連絡に忙しく、母親の應ずる聲を背中に聽いて居りました。最初は全然穩やかな樣子で居りましたが、不意に泣き聲が聽こえてくるので愈愈此は只事ぢやないらしいと思はれたのです。

母親は私を呼んで玄關に向かふやう云ひました。くすんだ緑色の制服を着た男が、御目出度うございますと云つて一葉の赤い紙を差し出しました。

「臨時招集令状」の文字が見てとれます。「ボランテイアヲ令セラルニ依テ當該日時ニ出動スベシ」といふ文言が、東京オリンピツク・パラリンピツク竸技大會組織委員會の名によつて記されて居りました。私が署名をすると、男はそれぎり何も云はず去つて征きました。

當初に掲げた八萬人の目標はまつたく達せられず、學徒の動員によつて不足を補ふらしいといふ噂は慥かに聽いて居りました。母親は赤らんだ眼で私を見上げて、オリンピツク萬歳! と聲を震はせました。オリンピツク萬歳、オリンピツク萬歳! と私も高らかに唱えました。

ツイツタアを見ると、實に多くの學生が招集令状の届いたことを書いて居ります。どうも人文科學を専攻する者から優先的に招集が行なはれてゐるやうで、理工學系の學生は對象から外れされてゐるさうです。

三日後に最初の集會が開かれました。地域ごとに會場は分れてゐるさうですが、それでも數百名の男女が居たと思ひます。なにやら偉さうな男が登壇をして、「不斷は文學や哲學などといふ世間の役に立たぬことばかりを學んでゐる諸君にも、遂に御國の爲になるときが來たのであります」と演説を振いました。感極まつたのか、涙を流す學生も居りました。

翌週にも集會は豫定されて居りましたが、私は午後に哲學史の講義を入れてゐたので已む無く缺席を決めこみました。すると講義の途中に大學の職員がやつて來て、私の名前を叫ぶのです。ボランテイアの管理は大學で行なつて居り、怠慢は就職活動に大きく影響すると全體の前で説明しました。

十月になると、明治神宮外苑竸技場で壯行會が催されました。嚠喨たる喇叭の音に合はせて入場行進を行なひ、首相の訓辭を拜聽したのち、國家齊唱に移りました。氣慍は三十八度を超えてゐたため、そのあひだにも次次と學生が倒れてゆきました。觀客席の母も不安な心持ちであつたらうと思ひます。

二〇二〇年を迎へると街には尋常ならざる緊張感が漂ひはじめました。七月の酷暑のなかでも、野外で働くボランテイアを思へば贅澤は出來ぬはずだといつて冷房の使用が禁ぜられました。インスタグラムにも検閲が及ぶため、わざわざ「贅澤は敵だ」「映えたがりません勝つまでは」などとハツシユ・タグを附して投稿するやうになりました。

大會が始まつてからの約二週間は、ほとんど惡夢のやうであつたと記憶してゐます。狂つたやうな暑さのなかで無給の通譯に勵み、亞米利加や英吉利や中國といつた列強の竝ぶ閉會式をぼんやりと眺めて居りました。母親は恰度車で出かけていたので、その樣子をラヂオで聽いて涕泣したさうです。

二〇二〇年が終ると、本格的に就職活動が始まりました。学歴も手伝ってか書類選考には苦労しませんでしたが、面接になると件のボランティアのほかに話すことがないので弱りました。あるときオリンピックの話はもう何百人からも聴いた、ほかに話題がないのかと問い詰められたので、困りきった私は、高らかにオリンピツク萬歳、オリンピツク萬歳! と唱えました。気の狂った女だと思われたことでしょう。

一銭でも泣いて喜びます。