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翼を今一度、この手中に収めんとす

朝、地下鉄の駅のホームから階段を登って、改札をくぐる、とサラリーマンがレッドブルを一気飲みしていた。

「レッドブルかぁ…、この人相当キてるな…。」と勝手に思っているぼくをぼくは自覚した。昨日は徹夜だったとか、今日は体調悪いとかそういう理由で飲んでるんじゃないかなぁと自然と考えていたのだ。

***

レッドブルの登場は中学だったか、高校だったか。飲むと超人になれるドリンクがあるときいて(そんなバカな笑)試験前になると決まって必ずアホみたいに飲んでいたのを覚えている。飲むとたしかにシャキッとした気がして万能感にあふれてなんでも何時間でも集中し続けられる気がした。(プラシーボ効果ってやつかもしれませんが。)

独特の匂いと化学的な味がクセになって、折節に触れてそれはもう浴びるほど飲んだ。
当時学生のぼくにはお酒を飲むような感覚に近かったのかもしれない。少し高くて、あんまり入っていなくて、飲むと気持ちが高まるスペシャルなドリンク。

でも飲めば飲むほど、体に悪いものを飲んでる感が拭えなかった。加えて、一定時間をこえると明らかにレッドブルの効果が身体から消え去ったという感覚が生じて、虚脱感に毎度襲われていた。

そして、
この飲み物に頼らないと頑張れないというのは何かがおかしいんじゃないかと思うようになった。

それからぼくはレッドブルを飲むのをやめた。それから今まで、約8年くらい?は飲んでいない。

大学時代は夜勤のバイトをしていたので、徹夜が週に3回くらいは当たり前で、周りのみんなが夜勤前の「コレ一本」としてレッドブルを必ず飲むのをいいなぁと横目に見ながらも、ぼくは飲まなかった。

ここで確認のために一度言っておきたいのは、決してレッドブルが「ダメなもの」と言いたいわけではなくて、個人的にただレッドブルをぼくは飲んでないって話がしたいだけなのです。レッドブルもモンスターもあの独特の味は好きだし、今も飲んでないけれどあの味は思い出せるし、思い出せば唾液が出る。

結果としてぼくは頑張れない時、具合が悪い時、そんな時にはずみをつける行為を自ら手放した。しかし、具合が悪いとか、気分が乗らないとか、徹夜だとか、社会からしたらそんな個人の都合は知らないよというのは言うまでもない。

だからまぁ、ありていのコトを言うと飲まずにやるしかなかった。

なくなってはじめてその存在の大きさに気づくいうことはそれなりによくあることだと思う。ただ、このケースに関して言えばそれはなかった。元々そんなもんだったのかもしれない。
レッドブル1つで何かが変わるなら国がお金を出して国民総支給すべきなのだ。だから飲む必要ハナからなかったのだ〜。


と大口を叩いてみたけれど、
やっぱりぼくの中でレッドブルというのは最終手段的な選択肢として残っているというのを確認したのが今日のサラリーマンを見た瞬間だった。


ぼくがもし本当にレッドブルをいらないものと考えているなら冒頭に書いたように「キテるな…。」なんて思わず、「ヘイヘイ、体に悪いもん飲んでんねあんちゃん。やめとき、やめとき〜。」と思うはずなのである。

ぼくが飲まずに8年くらいきているのは「まだその時じゃない…」と考えていたからということだったのだ。このことは自分からするとかなり驚きだった。

いらないと考えて捨てたはずのものにぼくは支えられていたということなのだ。でもこれはもしかすると悪いことじゃないのかもしれない。何かをするときに「最悪これでなんとかなる」って言うものがあることは人を救う。

遠藤周作の『沈黙』のキチジローがそうであった。(彼はわりとすぐにその最悪を利用してしまっていたけれど笑)
まぁ死にはしないからねと考えることに似ているかな。

ぼくはこの先いつまでレッドブルを飲まずに頑張れるだろう。再び手にすることはあるだろうか。
いやいや、飲まなくても大丈夫だ。きっとね。

まだ、その時ではない。







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