揺らめくも燃ゆる
ぼくは何かが壊れたとき、それを元に戻したいと思う。
モノ、人間関係、自分の体調、心。
壊れちゃったけれど、まぁいいか—とは余程それがどうでもいいモノ、コトでない限りは思わないはずだ。
壊れたものがなんなのかによってなおし方はそれぞれで、漢字もそれによって変わる。(だからここではひらがなを使った。)
少し話が重複するけれど、わかった上で繰り返させていただきたい。
ぼくは壊れたものは“なおせば元に戻る”と思っていた。
しかし今日、『居るのはつらいよ』『町の医者は笑う』の著者東畑開人さんのお話を伺って、ぼくのこの考えは間違っていたと思った。そして、元に戻せると思っていたことは傲慢だったなぁと反省した。
東畑さんのお話は、
シャーマンになる人は、元は癒された側であるとのこと。その人は身体のどこぞの具合が良くなく、医者にきいてもわからない。そこでシャーマンに相談すると、シャーマンの見えざる力によって癒される。
そしてやがてその人もシャーマンになるという話であった。
また、シャーマンになっていく過程においてもその人は癒されいく、とのことだった。(ぼくの理解ではこういうおはなしだった。)
『なおすことは人生を変えること』だともおっしゃっていた。
どんなときも時間は不可逆なのだ。
壊れてしまったものは戻らない。
なおすとは、変えるということだったのだ。
『壊れる』という表現も間違っているのかもしれない、飽くまでただの状態の変化に過ぎない。その状態が望まれてない状態というだけだ。
そして、その状態からまた変化することが『なおす』ということなのだ。
『なおす』はあってほしいという願いの状態へと変化することなんだと思った。(それは誰からの願い、要請なのかということはまた話がややこしくなるのでここでは触れない。)
“戻す”ではなく、“進む”。
陶器が割れてしまったときに、『金継ぎ』という修理方法があって、これは割れたところ同士を漆で接着してそこに金とかをふりかけて美しく仕上げる技なのだけれど、なおすってこういうことなんだ、きっと。
割れていないその陶器は大変美しかったろう。
でも金継ぎされたその姿も美しい。
この姿は割れる以前とは全くの別物で割れる以前には想像すらしなかった姿だろう。(どういう割れ方をするかもわからないし)
壊れたって終わりじゃないのだ。ぼくもまだ進める。
追記
東畑さんのトピックはもう一個あるので、どっかのタイミングでまた触れます。
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