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2024年2月8日、世武裕子〜地獄の黙示録VHS編〜(2/8)

今日も怒涛の一日だったなぁ。

すっごく久し振りにオグ君と会った。オグ君はマスドレ(MASS OF THE FERMENTING DREGS)のギタリストで、私はベースボーカルのなっちゃんから長い間セミアコを借りていた。(そして、ギターなんてロクに弾けもしないくせに、常田(大希)のじいちゃんのギターも借りたままだ。常田、ごめん!どうか忘れていますように。)

以前所属していたSMA(ソニー・ミュージック・アーティスツ)の倉庫になっちゃんのギターを預けていたのだけれど、独立と共に引き取った。それからは引っ越しの度に自分の車に乗せて一緒に走り、なっちゃん(と、ドラムのkomaki)と少しの間 "地獄" というバンドを組んだことを、その度に思い出して懐かしかった。
人間関係って「好きだから会う」「好きじゃないから会わない」というシンプルな二択には収まらない色々を背負っていて、自分たちだけのバランス、暗黙の距離感みたいなものがある。と、私は思う。久しくなっちゃんとは会ってないんだけど、ギターケースのポケットに短い手紙を忍ばせて、オグ君に託したというわけだ。
手紙は、ジャームッシュのポストカードの裏に書いた。

少しずつ、身の回りを整理している。なんとなく今回は丁寧にやりたくて、別に捨てたら良いだけじゃない?もう誰も覚えてないだろ、みたいな事とひとつずつ向き合っている。たった162cm程度の背丈と、最近増量してダイエットが急務の肉の塊の中に莫大な情報と思考が運ばれているのだから、一人で勝手に目まぐるしさを感じていて当然だろう。

なんとなく一仕事を終えた気持ちで軽く自宅でランチをとる。その後は、残高証明書を発行して頂くために銀行へ。英文のものを頂いて、これをまたスキャニングし、パスポートセンターの方に逐一確認して頂く。
正直言ってセンターの方々がいらっしゃらなければ到底VISAの申請なんて通らなかっただろう。

そんな自分がダメとかっていう話ではないのだけれど、基本的には子供の頃からただひたすら音楽との戦い(共闘、あるいは共鳴であったなら救われるが)に明け暮れ創作や表現と向き合い続けているだけで、褒めて頂く場面も増えたものの、はっきり言って社会的には相当お粗末な人間である。「みんな知っていること」が自分の知らないところで当たり前に街を歩いている。

先日の日記 "フレンチバイブス" の回でフランスの文句を絵巻もののようにぶちまけたばかりだが、そんな愚痴ってまであなたは何故パリに行きたいの?と思われていると思う。私には夢が幾つかあるが、その中のひとつに「ヨーロッパの戦争映画の音楽がやりたい」というものがある。(伝記物も含む)

私は活動家ではないが、ひとりの実在する女性としてこの社会の中で生きていて、やはり思うことはあるのだ。「はいはい、またジェンダーの話題ですか」とうんざりせずに読んでもらえたら嬉しい。

映画音楽でも「女性が主役だから、ぜひ世武さんに」とご依頼を頂くことが多く、ある意味で私も理解できる一要素ではあるし、結局のところ入り口がなんであれ素晴らしい作品は素晴らしい。
だからこそ、そのような場で「ちょっと待ってください、私が女だということがここで関係ありますか?そもそも性別は二つだけではなくて....」と演説を始める気もないのだが、音楽における"女性らしさ"には疑問を持っている。そういう「通例」あってこそ出会えた作品もあるだろうけれど。

本来の私は、地獄の淵を彷徨うような暗くて物悲しい音楽ばかりを作ってきた。デビューの時に作った幾つかの作品デモを聴いたレーベルの方に「60歳くらいの男性の作品かと思ったら20代の女性で、僕ら皆んなでびっくりました!」と言われたくらいだ。小学生時代は「子供らしい可愛い曲を書かないと、全国規模のコンクールには選ばれない」と言われて「なんとかの楽しいサイクリング」みたいなタイトルの曲を書いたことがある。(確か)9歳だったが、屈辱的な気持ちになったことを今でも強く残っている。(こんな忘れっぽい私が気持ちの詳細まで覚えているので、よほどだろう)
そもそも私は6歳か7歳の時に「みんなで踊ろうよ」という曲を作ったのだが、このタイトルも母親が設えたもので、「小学生らしさをアピールするため」に、曲の内容にもアレコレ母からの添削が入った。全然みんなで踊るような協調性もなければ、楽しくサイクリングしたいという欲求は皆無だったはずだ。自分の娘を子供らしくしようと一生懸命だった母は、私と違って「らしさ」を愛する善良な日本国民だったのだと思う。

『地獄の黙示録』のビデオテープを最初に巻き戻す時くらい話が長くなりそうなので話を現代に戻すと、「らしさ」にはいつの時も30%の「言いたいことは分からなくもない」と70%の違和感を持って生きてきた。
そういう違和感を、戦争映画のスタッフィングにも感じてきたのだ。
女性の作曲家が戦争映画の音楽を担当している例は、私が知る限りほとんどなかったし、女性の作曲家が担当する戦争映画の大多数は、戦場に赴いた男たちではなく、彼らを待つ女性、子供たちなどを扱ったものだ。かと言って「女性は戦争経験者ではないから」という説明はなかなか成り立たないだろうし、そういう事に地味な違和感を持っている中で、自分の音楽と誰よりも長く付き合ってきた私は、戦場の音楽を書いてみたいと前から志願し続けているわけです。(なお、戦争には絶対的に反対の立場で)

女性の作風がいつだって女性らしいとは限らない。
なんなら、女性らしい作風とは一体全体なんでしょうか?と、全くわからない振りをして意地悪く尋ねることもできるだろう。

フレンチバイブスに愚痴を溢しながらも、大変な思いをし、それなりに多額の出費もして「あなた方の国で生きる権利を、どうかわたくしめにお恵みくださいませ!」と深々頭を下げるって、本当は「そこまでして生きる権利って与えてもらうもの?」とも思うのだが、夢はデカく!が人生のモットー。簡単に叶っては意味がない。その道中で思わぬ出会いがあったり、発見があったり、挫折があったり栄光があったりしたい。

「世武さんがもし亡くなった時にはご遺体を運ぶなども発生しますので、保険には入っておかなければならないというわけです。一年間マックスでの保険加入が義務になっておりまして、おそらく一番安いもので30万円くらいからありますのでご検討くださいませ。」と放たれた社会の常識をメモ帳に書き留めて、それでもなお、あえて自分自身を煽るように夢のことを思い出しながら「2024年2月8日、世武裕子」と書いた自分の筆跡を眺めた。

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