インターネット時代の倫理や道徳に基づく規範(べき)について

多くの人は内面にある自己の「正しさ」に従って行動しようと考えている。この「正しさ」を支えているのが、それぞれの「価値観」であろう。ただし、「価値観」はもはや多様であることが前提である。「価値観」は地域や組織によって何らかの傾向があるとはいえ、「あの人とは価値観が合う、合わない」という言葉から分かるように「個」を前提とした概念としてもはや流通している。さらに言えば、価値観は他者に強要することはできないというところまで理解されているように思われる。
とは言え、「価値観」を他者と共有しなければならない状況は現在においても、もちろんある。それは「規範(べき)」だ。「規範(べき)」の概念は、価値観を根拠としていながら、他者に「〜すべきである」を公に適用することが可能になる。この、他者に「〜すべきである」という規範は、社会規範と定義され、現時点では1.宗教規範、2.倫理規範、3.習俗規範、4.法規範という4つの種類が存在する。(「毎朝、健康のためのヨーグルトを食べる」といった個人規範はこれに当てはまらない。)
この中で、私が注目したいのがもっとも身近で私たちに影響を与える、道徳や倫理に基づく規範(べき)についてである。

<倫理>
人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。
<道徳>
人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。
出典:デジタル大辞典(小学館)

インターネットが普及しあらゆる情報が行き来することによって、私達の価値観に大きな影響を与えていることについては誰も異論を示さないだろう。大衆が望む情報を発信することそのものが大衆の価値を、つまり大衆そのものを再生産する取り組みであったマスの時代から、「私」個人にとっての情報とはなにか、価値とはなにかについてインターネットはその可能性を開いてくれた。「いつの時代も、そもそも人々は多様であった。」という考え方はもちろんあるが、インターネットによってたくさんの情報が行き来することで、そうではないもう一方の自分のあり方について気づけたこと、人々の内面に多様性が獲得されたことについて私たちは納得せざるを得ないだろう。

結果、価値観が多様化することで、あたりまえではあるが、倫理・道徳による「規範(べき)」のあり方にも影響を与えた。これまで共通の文化的、社会的背景を礎に培ってきたみんなの「正しさ」を元手に、ある程度の説得力をもって公に他者に要請することができた「規範(べき)=倫理観、道徳観」がそう簡単には通用しなくなってきたというわけだ。
通用しないとするならば、それぞれの価値観の違いを埋めるように互いに調整を行えばよいはずであるがなかなかそうはならない。これは、一方の意見に対して納得できない人が、インターネットにおいて陰湿な他者批判を行っている現状を見てもあきらかだ。SNSや掲示板、ブログなどで行われている誹謗中傷の書き込みは、他者に要請したい自己に内在化した倫理観や道徳観に基づく反論ととらえらことができるだろう。
どうして調整が難しいのか?「倫理」や「道徳」は、これまで強固につくりあげてきた個人が内面化した「正しい」価値観に直結しているからだ。息をするように積み重ねてきた規範行為はそう簡単に調整することができない。スムーズな行為として実践されるからこそ、「倫理」や「道徳」に基づく行為は強い。強い信念のもと実行される行為は、自己に内在化された自発的な行為であり、ここには「他でもあるかもしれない」という躊躇やためらいを前提としない明確で自明で瞬発力のある実践行為である。この道徳的な「正しさ」は美しく説得力を持つとともに、他のあり方に対しては残忍だ。多様性を排除すること、つまりは「正しさ」を前提とした他者への強制意識へ直結することを私たちは理解しなければならない。
では、私たちは自分のなかにある暴力性をはらんだ「正しさ」に基づく、他者への「規範(べき)」と今後どう向き合っていくべきか?まずは、①自分の「正しさ」を創ってきた文脈を他者に対してわかりやすく自己開示すること。これが大前提である。そして、②他者が培ってきた「正しさ」の文脈を相手の立場にたって理解するように務めること。時間はかかるがこれくらいしか方法はないように思える。

これからはじまる他者との関係性については、自己の価値観についてあらかじめ自己開示を行いマッチングをはかることも、無用な価値観の衝突を避けるよいやりかただ。例えば、インターネットを用いて組織や個人の価値観を継続的に発信することで、これに共感できる人と協同をはかっていくやり方だ。「人間話し合えば分かり合える」これらの理想的な言説に対して異論を唱えるつもりはさらさらないが、あるタイムスパンで達成すべき目標や描いていきたい未来がある場合には、組織としても、個人としても、自分の価値観を言語化し自己開示する能力が今後どうしても必要になってくるだろう。

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