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抵抗

起きること(結果)は全て適切であり、不満や不安を抱くべきこと(抵抗すべきこと、闘うべきもの)は何もない。

不満、不安を抱くべき(抵抗すべき、闘うべき)であるといった自我の思考体系全般に関してもまた、それに対して抵抗したり闘ったりするべきではない。

ただそれは、そういった怖れに根ざした自我の考えを、そのまま自分の考えとして採用すべき(その考えと自分とを同一視すべき)ということではない。


それはあるがままを受け入れる、ということにはならない。
私はあるがままとは何なのかが分かっていないから。
あるがままを受け入れることは、真理(実在)を受け入れる、ということなのだから。

自分の誤った考えをそのまま受け入れてしまうことは、決して「自分をあるがままに受け入れる」ことではないし、「現実を受け入れる」ことでもない。

あなたや私が苦しむべき理由も、苦しむべき現実も存在しない。

だから私たちは、変えられないもの(結果)を受け入れるべきであるのと同時に、変えられるもの(原因)は変えていかなければならない。


それでも、そういった自我とその思考体系(誤り)に抵抗して闘ったりしてしまうこともまた苦しみを生んでしまう。
闘えば自我は(喜んで)応戦してくるだろうし、闘いが延々と続いてしまうだけだ。


自我の意見に抵抗もせず、決して言いなりにもならず(ここが微妙なところ…)、真理の光と共に誤りを見つめて無を無に帰していく、ということはまた、自我を浄化して光に帰していく、という道のりでもあるのだろうか。

自我もまた愛を与えるべき存在…

うん……

そしてこの真理を学ぶ道というのは、「自分自身を愛する」ことを学ぶ道のりということでもあるのかもしれない。


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