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私たちは大丈夫である

スピリチュアルな分野で、「選択はない」「全ては決まっている(定まっている)」というような説明があります。

それは、ある意味では真実を述べている言葉ではあるのかもしれませんが、言葉足らずでもあるように感じます。


もしその言葉を、「この私(自我)」や「この現実」が確固とした事実であると信じてしまっている心(状態)で聞いてしまうと、混乱(苦しみ)の元ともなってしまう気がしています。

それを、否定的な意味で捉えてしまうことは充分にあり得ることだからです。

それにこの世界では、「この私(自我)」や「この現実」が確固とした事実であると考えることは、ごく普通のことです。


もし今、比較的幸せを感じていて、比較的肯定的な状態にある人がその言葉を読んだなら、そこにそれほど問題はないのかもしれませんが、今苦しみの状態にある人がそういった類の言葉を読んだ時、ある勘違いを起こしてしまう可能性があるかもしれないということです。


それは、この苦しみ(と思っている状態)が選択の余地がない運命(宿命)であると考えてしまう可能性があるということです。

この世には運不運があって、運がいい(神に愛されている)人は幸せになって、運が悪い人はこの不幸(と思えるもの)から逃れることはできないのだ、というような考えに捕われてしまう可能性があるということです。


究極には、それを見てそう信じてしまうことすら投影であり、自らの選択でもあるのかもしれませんが…

結局は、「選択はある」も「選択はない」も共にある部分では真実を表す言葉なのかもしれませんね。


先程の「選択はない」「全ては決まっている(定まっている)」という話ですが、どのように「選択がない」のか、どう「定まっている」のか、そこが問題なのではないかなと感じます。

選択はなくて定まっているとするなら、どう選択がなくて、どう定まっているのか…


その答え(真実)は一つです。

私たちは神(愛)の子であり、ゆえに愛そのものであり、幸福であることがその本質であり、そこから外れること、そこから逃れることは、どうあがいても不可能である、ということです。

そういう意味で「選択はない」のであり、「定まっている」のだと思います。

なぜなら、真実(真理)以外何も存在していないからです。


だから、全ての宗教やスピリチュアリティが伝えるべきことは、私たちは大丈夫である、ということ(事実)なのだと思います。 安心なのだと思います。

それが贖罪(という言葉の意味)なのだと思います。


私たちは、大丈夫(安心/安全)な存在であるという真実を伝えることが、今この世界に必要なのだと思います。

たとえ今の「現実」がどういう状態で、どのように見え、どのように感じられていたとしても…


選択はなく、選択はあり、選択はないという選択があり、その選択すらもなく、その全ての選択を超えて、私たちは大丈夫であるという真理だけがある。(訳わからない。笑)

私たちは神の子であり、愛であり、限りない歓喜である。

それだけが真実であり、真理であり、現実である。


たとえ今どのように見え、どのように感じられていたとしても、その事実は永遠に変わることはありません。

現象は幻想であり、幻想(現象)をコントロールしようとする必要もなく、それに巻き込まれる必要もなく、私たちは大丈夫である。 だから安心しましょう。


私たちは大丈夫である。 ここに神(愛)が在るのだから。
アーメン。

Picture : Gini Crepps


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