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選択しないという選択

先日選択ということについての記事を書いたのですが、その続きのようなものを書きます。


最近このことについてよく考えていて、改めて選択って何なのかなと思います。

先日の記事で私は選択の力について強調したのですが、その中で私が強調した(分離の方向か分離を癒す方向かという)根源的な選択というものは、実は私が意識的に選択できるようなものではないのかなと…また迷い(というか混乱)を抱えてしまっています。

明らかに先日の記事で私が強調したような根源的な選択というものが、今私にはできていないのです。


そして、これを私がしようしようと頑張れば頑張るほど、私にはそれができないのかなという気がしています。


この根源的な選択というものは、結局私(たち)が意識的に(選択)できるようなものではないのかなと…

そういう意味で言えば、やはり「非二元の分野でよく言われる説明」のように、私たちには実は選択など存在していないのではないか…と思うのです。


矛盾のある記事を書いてしまってごめんなさい。
私自身が今混乱の中にあるために、やはり書くものにもどうしても矛盾が生じてしまうのです…


その選択についてなのですが、あえて言葉で表現するとするなら、「選択しないという選択」なのかなという気がしています。

言い方を替えれば「委ねるという選択」ですかね…


最近思うことは、私(たち)が普段意識しているこの顕在意識というものは、結局は全てが現象(結果)に過ぎないのかな…ということです。

もしそうだとするなら、結果であるこの意識的な現象(顕在意識)をコントロールしようとすることは、全く意味をなさないということになります。


結果である(世界の)現象をコントロールしようとすることは、苦しみを生み出すことだからです。

それは、今ある事実に対する抵抗に過ぎないからです。


今ある事実に抵抗することは、やはり苦しみを生み出します。

自分の妄想を信じてしまうことは避けた方が良いと思うのですが、事実に抵抗し避けようとすることにはやはり苦しみが伴います。


この辺りの、自分の妄想と事実との識別というものが、私にはまだよくできていないのかもしれません。


ここで選択ということに話を戻すと、結局私(たち)が目指している選択というものは、さっき言ったように「選択しないという選択」「委ねるという選択」だけなのではないでしょうか。

私たちが普段意識できているものは全て現象(結果)であり、決して原因ではあり得ない…


もしそうだとするなら、私たちが意識的に選択しよう、また何かを(改善)しようとして起こす全ての行動には、常に何らかの苦しみが孕んでいるということになります。


今ここにあるこれ、今ここにあるこの現象に逆らわないこと、今ここにあるこの現象を(抵抗せずに)受け入れること、それだけが、今私ができる唯一の選択なのかな…という気がしています。


そして、その選択すら私の意識的な(コントロール的な)ものではない…


今これを読んでいるあなたの中にも、様々な考えがあると思います。

その中には、「何を言ってるんだ」「そんなことはない」といったような考え(この記事への反感)も当然あるかもしれません。


でも、このようなものが、今の私の中にある考えです。
混沌としていますが…

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しかし、真実(真理)は在ります。
それは変わることのない、揺るぎのないものです。
そしてそれだけが、私たちを救ってくれます。

今私が目指していることは、それ(真実)を知ること、そしてそれは「真実に自らを委ねる」ということなのかもしれません。


「その時」まで学びは続きます…


今日は私のとりとめのない考えを記したものを最後まで読んでくださり、どうもありがとうございました。


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