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スポーツ記事は、エンタメか報道か。

最近、このことを考える機会が多い。

エンターテインメントの世界では、例えば写真は、オフィシャル素材の利用しか許されないことも多いし、記事についても、マネージメントの許諾を取らずに情報を流通させることが非常に難しい世界だ。

つまり記事を公開する際には、必ず権利元の許可を通すのは暗黙の了解であり、ビジネス上の習慣として日々行われている。

これは権利ビジネスの構造上の問題であり、この世界の周りで生きてきた僕としては、ごく当たり前のことだった。

だが、一方で情報を流通させるメディア側の立場で考えてみるとどうだろうか。

僕はスポーツの記事を書く際、事実を伝え、なるべく公平な視点で読者に情報提供をしながら、自分の視点と自分の表現で記事を書くことにしている。

これは、メディアで活動する人間としては、ごく当たり前のことを実践しているだけに過ぎないが、実は、あまり実践できていない人も多いように感じる。

かくいう僕も、以前は、エンタメ界で生きてきた習性が抜けきらず、原稿を事前に取材対象者にチェック依頼を出すことが多かったのだが、すると、「表現をもう少しこんな感じで変えて欲しい」といった依頼が来ることもあるし、明確に文章を指定してくる人もいた。

だが、これを受け入れてしまうと、せっかく事実を取材し、自分の視点で書いた記事を、相手のチェック次第で変えてしまうことになる。

僕は事前にチェックすることが悪いと言っているわけではない。だが、事前チェックによって表現を変えてしまうようなライターがいるのは問題だ。そのような姿勢のライターは、原稿が相手に渡った瞬間に、原稿の編集権を一時的に相手に移譲させてしまっていることに気づいていない。自分が取材した事実を、自分の視点を、自分の表現を、簡単に相手に渡していいのか?

広く世の中に伝えるべき報道内容が、個人や組織の恣意的な意図で変えられることはあってはならない。

自分の表現は簡単に渡してはいけないのだ。

瀬川泰祐の記事を気にかけていただき、どうもありがとうございます。いただいたサポートは、今後の取材や執筆に活用させていただき、さらによい記事を生み出していけたらと思います。