クレムリンサッカー

ソ連のスポーツ 第2章

第2章では、サッカーとホッケーについて。

サッカー

 ロシアでは帝政時代から既にサッカーが行われており、革命後も都市レベルで大会が行われていた。はじめて本格的な全国リーグが発足したのは、1936年。同年7月には、赤の広場に人工芝を敷き、スターリンの前で「御前試合」も行われている。各FCの母体は労働組合や、陸軍など各種の国家機関であり、選手もその構成員という建前であったが、実態はプロと呼んで差し支えないものであった。これはサッカーに限った話ではなく、いわゆる「ステート・アマ」問題として西側との軋轢も生んだ。

1936年7月、赤の広場で行われた「御前サッカー」

 FCを所有することは国家機関の名誉心を刺激し、不穏当な競争にも繋がった。1942年には名手・スタロスチン4兄弟が揃って収容所送りになるなど、粛清の嵐はサッカー界にも及んでいる。

 サッカー人気は第二次世界大戦後の娯楽不足の中、最高潮を迎える。モスクワの≪ディナモ≫スタジアムはサッカーのいわば聖地であり、試合日の周辺の混雑ぶりは大変なものであった。

 1960年、ソ連代表チームは欧州選手権で初優勝。この時は並居る強豪国の不参加が幸いしたが、その後も欧州選手権で3度の準優勝を果たすなど好成績を残している。
 50~60年代には、ソ連サッカーは黄金期を迎える。

 1963年、レフ・ヤーシンはGKとして現状唯一であるバロンドールを受賞。彼の名は、FIFA大会最優秀キーパーに贈られる「ヤシン賞」として残っている。史上最高のキーパーの呼び声も高いが、またその篤実な人柄を伝えるエピソードも多い。

 ホッケーと比較すると国際大会での栄光にはあまり縁が無いが、それでも1975年にはディナモ・キエフがUEFAウィナーズカップとスーパーカップで共に優勝。FWのオレグ・ブロヒンはバロンドールに輝いた。キエフは一躍、ソ連サッカーの中心となったのである。ディナモ・キエフは86年にもウィナーズカップで優勝している。

 1981年にはディナモ・トビリシがUEFAウィナーズカップで優勝。

 1988年のソウル五輪で、ソ連サッカー代表は金メダルを獲得。国際舞台におけるソ連サッカーの最後の輝きだった。

パフタコールの悲劇

 ソ連では基本的に、国内の事故や事件は報道されない。飛行機事故などはもっての外であるが、隠し切れない事故もあった。1979年8月11日、ドニエプロジェルジンスク(現:ウクライナのカーミヤンシケ)上空で2機のTu-134旅客機が衝突。両機の乗客乗員178名全員が死亡した。このうちの1機には、遠征に向かっていたFCタシケント・パフタコールの選手・コーチら17名が搭乗していた。この悲劇は隠蔽のしようも無く、極々わずかではあったが、国内で報道されたレアなケースとなった。国家スポーツ委員会は以後3年、パフタコールは成績に関わらず一部リーグに残ることを決定し、チームは他のクラブから移籍選手を迎えてシーズンを乗り切った。

大祖国戦争とサッカー

 1943年5月2日、ドイツ軍から解放されて3か月後、廃墟のスターリングラードで「ディナモ・スターリングラード」と「スパルタク・モスクワ」の試合が開催された。スタジアムには3千人程度を収容できる観客席が急造されたが、当日は1万人以上がつめかけたという。

 ドイツ軍の包囲下にあったレニングラードでも、42年と43年、サッカーの試合が度々開催されている。

1942年、レニングラード包囲戦のさなかのサッカーの試合。
前線から選手がかき集められた。

 砲撃と飢餓のさなか、選手の栄養状態も劣悪だったが、レニングラード健在を印象づける一大イベントであった。
 いずれのケースでも、戦争で荒廃した人心を大いに元気づけたといわれる。

同じ映像から。ディナモ・レニングラードのキーパー、ヴィクトル・ナブトフ。最もこのシーンは試合中ではなく、映像用のポージングであろう。


バンディとアイスホッケー

 アイスホッケーの国と思われがちなソ連だが、パックではなくボールを使うバンディが当初は人気だった。最もbandyという名称は定着せず、専ら「ボールホッケー」ないし「ロシアンホッケー」と呼ばれていた。

 しかし1954年のアイスホッケー世界選手権でソ連が優勝し、さらに1956年の冬季五輪でソ連がアイスホッケー金メダルを獲得するなど、徐々にバンディを押しのけてアイスホッケーが冬のメインスポーツとなっていく。

 そもそもアイスホッケーに注力されるようになったのも、バンディと異なりこれが「国際的」な種目で、大会でソ連の優位をアピールするに絶好の舞台だったからであろう。

 「プラハの春」の翌年の1969年、アイスホッケー世界選手権でソ連とチェコスロバキアは2度対戦し、いずれもチェコスロバキアが勝利。因縁の対決を制した同国は歓喜に湧いた。ソ連はこの選手権で辛くも優勝するが、スポーツと政治が無縁ではない事を思い知ることになった。この対戦時、チェコスロバキアの主将ヨゼフ・ゴロンカがスティックを逆手に持ち、ソ連ベンチを「銃撃」するポーズをとった事も、話題になった。

 1972年、ソ連代表対カナダ代表の対決が実現。下馬評は圧倒的にソ連に不利ながら、ソ連代表はNHL選手で固めたカナダ代表と互角に渡り合い、その名声を一気に高めた。

 オリンピックでも金メダル常連であり、アイスホッケーはソ連の国民的スポーツに。ブレジネフ書記長も熱心なファンで、度々スタジアムを訪れていた。冬場は、公園や広場に張られた氷に多くの子供や若者が詰めかけたが、板囲いの簡易リンクでは地域の男児達がバンディやアイスホッケーに興じるのが常であった。一方素質のある子供たちは、高度に組織化されたジュニアクラブで英才教育を施されるのである。

 

 …なんか力尽きたので中途半端に終わる。

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