見出し画像

全球団からの達成者 投手編

前稿の打者編に引き続き、その選手がプレーした期間に存在した全ての球団から記録をマークした選手の調査報告、今回は投手記録編である。


話を戻してさて、投手部門はまずは勝利から見るとしよう。といっても交流戦を除く達成者は3人だけ、野村、古賀、武田と既出でありいずれもよく話題にされている。ここでは惜しかったケースを中心に見ていく。

表8b-1-1 全球団から勝利を挙げた選手
表8b-1-2 野村収の全12球団勝利
表8b-1-3 古賀正明の全12球団勝利
表8b-1-4 武田一浩の全12球団勝利

渡辺と江夏については前稿冒頭に述べたとおりだが、それ以外であと1球団届かずというのでは、緒方俊明の16球団中15球団、工藤公康の13球団中12球団が目立つところだ。後は12球団中11球団というのが宮本幸信、安木祥二、久保康友、グライシンガーの4人、13球団中11球団が木田優夫、シコースキー、杉内俊哉、寺原隼人というところである。

緒方は1947年に巨人に入団、1リーグ時代の5勝は阪急、大映、太陽、大阪、南海とばらばらであった。1950年には西日本に移籍し、セリーグ新規参加の広島、大洋、国鉄に勝利すると、さらに中日、そして古巣の巨人からも勝ち星を挙げた。

1951年からはリーグをまたぐ球団合併に伴い西鉄でプレー、今度はパリーグで毎日、東急、近鉄と勝ち、翌年シーズン途中に東映に移籍すると程なく西鉄からも勝ち星を挙げ、1954年5月1日には対高橋4回戦に勝って15球団目とした。

唯一、1950年に自身が在籍した西日本がこの年限りで合併してしまったために勝ち星を挙げることができず、全16球団達成とはならなかったのは残念だが、対戦機会のあった全15球団からわずか8年(高橋を除けば6年)で勝ち星を挙げたのは立派と言ってよい。なお8年で全球団というのは後年1976年から1983年の8年で全球団勝利した古賀に並ぶ数字である。

表8b-1-5 緒方俊明の対戦球団別勝利

工藤は1995年に西武からダイエーに移籍するとその年に西武に勝ってパリーグを制覇、2000年に巨人に移るとその年にセリーグ5球団に勝ち、2007年に横浜に移るとその年に巨人に勝って12球団制覇と、毎度移籍早々に相手チームから勝利を挙げていた。

楽天とは2005年の創設時に交流戦で早速勝利を挙げて交流戦を含めた全13球団勝利を達成していたが、2010年に西武に復帰して今度は楽天とリーグ内対戦するチャンスを得た。しかし交流戦では5試合で3勝と相性が良かったにもかかわらず、リーグ戦では不思議と楽天相手に登板することなく現役引退してしまった。

表8b-1-6 工藤公康の全13球団勝利

近鉄と楽天を両方含む13球団勝利は達成者は交流戦を含めても工藤の他に杉内と寺原が達成しているだけ、その杉内は巨人とダイエー・ソフトバンクにしか在籍しなかったのでそれぞれの球団とリーグ内対戦の機会すらなく、寺原は阪神と横浜に勝てなかった。12球団まで肉薄したのは工藤だけ、という状況だっただけに、登板機会があればと惜しまれる。

宮本は広島戦に勝ち負けセーブいずれもなし、安木は巨人戦で42試合に登板するも0勝1敗であった。久保とグライシンガーは時期こそ違え共にロッテ在籍経験者だが、パリーグではロッテ以外に在籍しなかったため、交流戦での対戦機会しか得られなかった。木田は巨人と楽天、シコースキーは巨人とロッテに勝てずという結果であった。


次はいささか不名誉だが敗戦について見てみよう。こちらも勝利と同じく3人いるのは奇遇だろうが、そのうち最初の金子裕は戦前とあって全球団敗戦の対象は9球団だけとなっている。

表8b-2-1 全球団から敗戦を記録した選手

1936年に大東京に入団したが本格的な活躍はセネタースに移籍した1938年からで、春秋合わせて13勝15敗の間にセネタース以外の全球団に黒星を喫していた。1941年に黒鷲に移りセネタース改め大洋軍との対戦機会もできたが、この年は1試合で勝敗なく、翌年唯一の登板となった7月20日の対大洋8回戦で敗れて全9球団に敗戦となった。逆にこれに勝っていれば全9球団に勝利という好記録になっていただけに悔やまれた。

表8b-2-2 金子裕の全9球団敗戦

次の達成?者は全12球団から勝利を挙げた3投手のうちの一人、野村である。11球団に勝敗を重ねた野村は1983年に阪神に移って、残る大洋との対戦機会を得た。その最初の対戦となった5月15日の対大洋7回戦に勝って12球団勝利を達成した後、9月29日の対大洋23回戦で敗れて今度は全12球団からの敗戦を記録してしまった。

野村は、通算97勝93敗で迎えた1981年には開幕2連勝で通算99勝、100勝に王手をかけながらその後6連敗し通算99敗に到達、今度は100敗にも王手をかけてしまった。迎えた6月4日の対ヤクルト10回戦は勝って先に通算100勝達成したものの、次の6月10日の対阪神10回戦に負けて1週間経たずに通算100敗も経験するなど勝敗相拮抗する投手だっただけに、全球団勝利と全球団敗戦を同年に記録したのも偶然ではなかったのだろう。

表8b-2-3 野村収の全12球団敗戦

全球団勝利の他の2人、古賀は西武相手に1勝0敗、武田も中日相手に1勝0敗で、それぞれ不名誉な記録を免れていた。12球団勝利の工藤も先述のとおり楽天戦は登板機会なしで12球団敗戦にとどまっている。

さてそうなると3人目は誰か、全球団勝利者でないならばとお察しのとおり、これは全12球団セーブの江夏である。1979年の広島時代に6月9日の対阪神8回戦に負けてセリーグ6球団から敗戦、今度は1981年に日本ハムに移籍して4月5日の開幕戦で、かつての古巣南海相手に7回から登板したが9回に4点を奪われて逆転負け、最初の機会で全球団敗戦達成という残念な結果となってしまった。

もっともこの広島・日本ハム時代はリリーフエースとして大活躍、優勝請負人と呼ばれてこそ移籍先での登板機会も多かったわけで、これは江夏の活躍におけるちょっぴりほろ苦い勲章とでもいうべき記録だろう。

表8b-2-4 江夏豊の全12球団敗戦

なお、近鉄と楽天を両方含む13球団から勝利を記録したのは工藤、杉内、寺原とダイエーでチームメイトだった3人だけであった。そのうち工藤は楽天に、寺原は横浜に、それぞれ負けなしだったものの、杉内は2012年に13球団勝利した翌2013年にソフトバンクに敗れ、2007年の吉井理人以来となる13球団敗戦も達成してしまった。


次はセーブを見てみよう。といっても江夏以外には未だに全球団からのセーブ達成者が現れていない。交流戦を含めてもクルーン、増井浩俊、サファテ、秋吉亮の4人しか達成していないという、勝敗以上に希少な記録となっている。

表8b-3-1 全球団からセーブを挙げた選手
表8b-3-2 江夏豊の全12球団セーブ

なおこの4人全員が2005年以降の入団で、近鉄との対戦経験がない。近鉄戦でセーブを挙げたことのある投手は2014年の三瀬幸司を最後に全員が現役を引退しており、当面セーブの最多記録は12球団となることが決まっている。

表8b-3-3 クルーンの全12球団セーブ
表8b-3-4 増井浩俊の全12球団セーブ
表8b-3-5 サファテの全12球団セーブ
表8b-3-6 秋吉亮の全12球団セーブ

既に見たとおりこの5人の中には全球団勝利の達成者はおらず、したがって勝利とセーブの2部門を制覇した投手は未だ現れていない。その中では江夏の他、サファテが広島に勝てず、増井もヤクルトに勝てずじまいで11球団止まりというのが惜しいタイ記録である。

逆に全球団勝利の達成者では、野村と古賀は共に通算8セーブ、武田はパリーグ5球団以外にセーブなしと惜しい選手すらおらず、交流戦込みで達成した6人に広げても寺原と涌井秀章の7球団が最多でこれまた全く届かなかった。惜しいところと言えば勝利・セーブとも広島以外の11球団だった宮本幸信あたりであろうか。


お次はホールドだが、達成者は15人いる、と書かれて「6人では?」と思う人がいるだろうか。確かに「その選手がプレーした期間に存在した全ての球団」という今回の定義に従えば、ホールドの達成者は6人である。

今回達成者に加えた9人であるが、実は全員が2004年以前入団の選手であり、2004年まで近鉄との対戦可能性が存在していた投手たちである。ところが(現行の)ホールドの正式採用自体が近鉄の消滅した2005年以降であるから、そもそも近鉄戦でホールドを挙げること自体が不可能なわけである。

この点を踏まえれば、この時期の選手についてはプレーした期間中に全13球団が存在し対戦していたとしても、近鉄を除く全12球団から(2005年以降に)ホールドを挙げていれば記録達成とする取り扱いに十分合理性があると考えて加えたものだ。

表8b-4-1 全球団からホールドを挙げた選手

なお同様の事情で「1957年を最後に消滅した大映からは1974年制定のセーブを記録することができない」というパターンが存在するが、これに該当する米田哲也、若生智男、三浦清弘の3投手は通算セーブ数が2、2、0とあって考慮の必要がないため触れなかった。

さてこの15人全員が交流戦でのホールドを含む達成者であり、リーグ内対戦のみでの達成者は今のところ生まれていない。その中でも惜しかったのはMICHEALとシコースキーである。

MICHEALは2005年に日本ハムに入団、クローザーとして大活躍し2007年までに交流戦含め11球団からセーブを挙げ、4年間で101セーブを稼いだ。2009年に巨人に移籍した時は、当然日本ハムからのセーブが期待されたが、調子を落としてクローザーとしての起用はなくなり、2012年の西武を最後に現役引退するまで日本ハムからのセーブは挙げられずじまいだった。

一方ホールドの方も日本ハムの4年間でパリーグ5球団とセの巨人を含む4球団からマークしており、巨人に移って改めてリーグ内対戦でセ5球団からホールドを挙げなおした。そして西武に移った2012年3月31日の対日本ハム2回戦のホールドで12球団制覇とした。

セリーグは巨人しか在籍しなかったためリーグ内対戦では巨人からのホールドは挙げることができなかったが、通算31ホールドでの達成は15人中最少である。

表8b-4-2 MICHEAL(中村マイケル)の全12球団ホールド

シコースキーは2005年は巨人に在籍してセ5球団を相手にホールドを記録、2007年にヤクルトで復帰すると巨人戦でもマークしてまずセリーグ6球団を制覇した。その間交流戦では西武、日本ハム、ロッテからホールドを挙げていたが、2008年にロッテに復帰して楽天とソフトバンクからホールドを記録し、7月16日に対オリックス13回戦でホールドを挙げて全12球団達成とした。

その後も2009年にリーグ戦で西武と日本ハムからホールドを挙げ、2010年に西武に移籍したことで後はロッテからホールドを挙げればリーグ内対戦のみでの達成という快挙も見えてきたが、西武ではクローザーが主な役割となり中継ぎでホールドを稼ぐ機会がなくなってしまったことが響き、惜しくもチャンスを逃してしまった。

表8b-4-8 シコースキーの全12球団ホールド

セーブと同様、勝利とホールドの2部門を制覇した投手も今のところはまだいない。だがセーブとホールドの両方であれば、ご覧のとおり増井と秋吉が達成している。そのうち秋吉は交流戦を含めても7球団勝利であるから、増井の11球団勝利・全12球団セーブ・全12球団ホールドというのは最も「3部門総なめ」に近い成績である。

これに次ぐのがサファテで11球団勝利・全12球団セーブ・11球団ホールドである。そしてシコースキーもセーブを巨人と近鉄以外の11球団から記録しているので11球団勝利・11球団セーブ・全12球団ホールドとなる。この3人が3部門総合では最も成績を上げたということになるだろう。

ただ交流戦を抜きにすると、増井はパリーグにしか在籍しておらず、両リーグに在籍したサファテも8球団勝利・11球団セーブ・10球団ホールドに止まる。

一方シコースキーは3部門全てにおいてリーグ内対戦だけで11球団から記録しており(勝利は巨人とロッテ、セーブは巨人と近鉄、ホールドはロッテ(と近鉄)から未達成)、対象が近鉄と楽天を含む13球団であるとはいえ、その達成難易度の観点からも価値の高さが光る。

表8b-5-1 勝利、セーブ、ホールド、敗戦における記録達成状況

全球団からの達成者の最後に、完投について触れておきたい。現役時代に存在した全球団相手に完投している投手というのは交流戦を含めても実は一人しかいない。それが涌井秀章である。

表8b-6-1 全球団から完投を記録した選手

2005年に西武に入団、2006年にまず6球団相手に完投すると、以後毎年1~2球団ずつ達成チームを加え、2011年までに西武以外の全11球団相手に完投を記録した。その後FAでロッテに移籍すると、2016年5月19日の対西武8回戦で完投して全12球団達成とした。

野村や武田をはじめ12球団と対戦した先発投手は30人以上いる中で、たとえ交流戦込みであっても全球団に完投したのが涌井一人しかいないというのは十分誇ってよい記録だと思う。

一つ惜しいのは、中日と西武相手の完投は敗戦投手となっているため、完投勝利としての記録は10球団にとどまるところ、中日に移籍したため道は険しくなった。ただ逆に言えば初めてのセリーグ所属で、リーグ内対戦での完投機会が増えた点で、期待が持てるとも言えるだろう。

表8b-6-2 涌井秀章の全12球団完投

さてここからは、打者編の脱線に倣って「最も多くの球団から達成した選手」の点から述べてみたい。

涌井のような完投の達成者というと戦前戦後すぐぐらいの投手なら割合見つかりそうなものだが、実際にはいない。先に見た勝利や敗戦についても、その辺りの時代の選手は9球団敗戦の金子だけである。打者の盗塁などでは9球団で達成している戦前の選手が多いだけに、意外でもある。

2リーグ分立直前の1949年末時点では、スタルヒンと清水秀雄が全11球団、藤本英雄が全10球団、池田善蔵が全8球団から完投を記録していた。しかし2リーグ分立以降スタルヒンと池田はパリーグに、清水と藤本はセリーグに所属し、いずれもリーグ間移籍をしなかった。

2リーグ分立以降の選手も、セ2球団パ2球団に所属する投手というのはなかなか出てこず、7球団に所属した後藤修もセでは巨人時代の出場しかない。ようやく1960年入団の柿本実が1967年に阪神へ移籍し、8月に中日戦に登板したことで全12球団相手に登板した投手第1号となった程度である。

そしてこういった時代の選手が浮かび上がってくる視点はどこかと言えば、
全球団からの達成ではなく「最も多くの球団から達成した選手」という視点である。


最も多くの球団から達成した選手の筆頭にくるのは、中尾碩志である。200勝投手ではあるが、与四球10個のノーヒットノーランなどノーコンの印象などもあり、同時代の投手と比べていまいち派手さはない感じがするが、ことこの方面では他を抑えて出てくるのが中尾である。

巨人一筋の中尾だけにパリーグの球団とは全く縁がなかったが、1リーグ時代からセリーグまでの15球団とは巨人以外すべて対戦してきた。その結果、14球団全てから勝利、それも完封勝利を挙げている(したがって自動的に完投、完投勝利も達成している)。これらが全て最も多くの球団からの達成という点で最多記録となっていることは、凄いの一言に尽きる。

1939年に巨人に入団、1941年10月29日の対阪神11回戦の完封勝利で戦前8球団から完封勝利を挙げ、戦後は1947年に金星、1948年に急映と完封して10球団、そしてセリーグ分立の1950年に西日本、1953年に大洋ときて1956年4月18日の対広島5回戦で14球団目の完封勝利としたものだ。

広島は通算7勝11敗と中尾が唯一負け越した苦手、初勝利すら5年目の1954年4月でこれは16-6という乱戦でのリリーフ、6月にようやく先発でも勝利していた。完投したのも翌1955年4月が初めてだったが、この時は8回まで7-0と抑え込みながら9回に2点取られて完封を逃していた。その1年後にようやく完封勝利と、一段一段必死に積み重ねて苦心の末の14球団完封勝利だった。

表8b-7-1 中尾碩志(中尾輝三)の 全球団記録 達成状況

巨人だけに在籍した中尾をしてこれだけ達成できるのだから、チームメイトでかつ他球団も経験したスタルヒンや藤本英雄、別所毅彦らならより多くの球団を相手にして候補になるのではないか、と思うのは当然のことである。事実、中尾とタイ記録になっている選手は多い。

例えばスタルヒンは1リーグ全11球団とパリーグの新規3球団(自身が在籍した高橋・トンボは対戦できなかった)の計14球団と対戦し、勝利、完投、完投勝利、おまけに敗戦もこの14球団全てから記録している。しかし西鉄と近鉄からは完封勝利を挙げることができず12球団どまりであった。

表8b-7-2 スタルヒン(須田博)の 全球団記録 達成状況

また藤本は同じく14球団から勝利、完投、敗戦と記録しているが、中日時代に巨人から完投勝利を挙げ損ね、完封勝利は巨人の他にセネタース・急映・東急、そして国鉄相手にも記録できなかった。対国鉄戦は通算15勝2敗8完投の好相性だっただけに意外である。

表8b-7-3 藤本英雄の 全球団記録 達成状況

別所に至っては移籍時のしこり故か南海戦は1試合3イニングの登板のみでしかも敗戦投手となっているため、14球団は残念ながら敗戦だけとなっている。

表8b-7-4 別所毅彦(別所昭)の 全球団記録 達成状況

チームメイト以外では真田重蔵も14球団相手に投げているが、完投こそ14球団相手にやったものの古巣松竹とは1年限りの対戦で、完投負けのみの0勝1敗に終わり大半が13球団どまりであった。同じ1年限りの対戦でも、西日本には4勝0敗として敗戦も13球団どまりなのは幸いである。

表8b-7-5 真田重蔵(真田重男)の 全球団記録 達成状況

西日本を除く15球団勝利の緒方も、完投は西日本のほか巨人戦でも記録できずに14球団、加えて中日戦は完投勝利なしで13球団、さらに完封は7球団だけであった。また敗戦のほうは西日本のほか東急に負けなかったため14球団であった。

表8b-7-6 緒方俊明の 全球団記録 達成状況

こう他の投手を並べていくと、中尾の完投(スタルヒン、藤本、真田、緒方とタイ)・完投勝利(スタルヒンとタイ)・完封勝利(単独)全てで14球団達成はやはり凄いことだと考える。勝利の14球団も緒方に次ぐ2位タイ(他にスタルヒンと藤本)、加えて敗戦も14球団相手に記録し、スタルヒン、藤本、緒方と並ぶタイ記録である。


といって敗戦記録などは加えてほしくもないだろう。その思いが通じた、といっては失礼な言い方だが、14球団敗戦は2位タイ記録にとどまっており、1つ加えた15球団敗戦の最多記録がいる。記録の主は、今西錬太郎である。

戦後阪急に入団して20勝を2回記録するなど主力投手として活躍し2リーグ分立時には大洋に移籍して10勝したものの、以降2年で4勝8敗と奮わず、1953年には古巣阪急に戻るも0勝2敗で、1年で東映に移籍することになった。

ここまで10球団に敗戦を記録していたが、東映に移った1954年は2勝8敗、4月に高橋との初戦で敗戦投手となると、7月は古巣阪急、8月は毎日、9月は西鉄と負けが重なり14球団となった。そして翌1955年5月11日の対近鉄3回戦で敗れてついに15球団目となり、この年の2勝12敗を最後に現役を退いた。

セリーグでは大洋にしか在籍しなかったために大洋相手に投げることがなく、全16球団達成を免れたのは幸いだったが、対戦機会のあった全15球団から負けを喫したのは無念の一言に尽きるだろう。

表8b-7-7 今西錬太郎の 全球団記録 達成状況
表8b-7-8 勝利、完投、完投勝利、完封勝利、敗戦における記録達成状況

今西の15球団敗戦は「最も多くの球団から負けを喫した記録」であり、片や先述緒方の15球団勝利は「最も多くの球団から勝ち星を挙げた記録」である。この2人が東映での2年間はチームメイトとしてそれぞれ15球団目を記録したというのは、何の因果だろうか。


話が1リーグ時代経験組に集中してしまったので、最後に2リーグ制以降での完封勝利の記録を挙げておきたい。

1959年に大毎に入団した坂井勝二は、4年目に11勝を挙げてそこから7年連続2桁勝利をマークした。1970年に大洋に移籍、1971年には最高勝率のタイトルを獲得した。1967年には9回までノーヒットノーランをしながら延長戦で敗れるなど味方の援護に泣き、7年連続2桁勝利の間も勝ち越したのはわずかに2回だけだった。

最初の2年で2勝したのがいずれも近鉄戦だったが、その近鉄相手になかなか挙げられなかった完封勝利をマークしたのがようやく1965年、これでパリーグ5球団から完封勝利達成となった。

1970年に大洋に移籍して、5年間で153試合に登板しながらわずか8試合しか登板できなかった阪神戦で完封勝利を記録したのが6年目の1975年で、これまたようやくセリーグ5球団から完封勝利達成、どちらもあと1球団になぜか時間を費やしていた。

1976年に日本ハムに移籍、登板機会に恵まれなかったが6月29日に古巣ロッテ戦に登板、味方の大量援護に負けじと目の覚めるようなピッチングで1安打1四球完封勝利をマークした。坂井はこの年限りで現役引退したが、この年はシーズン2勝、完投も完封もこのロッテ戦だけというピンポイントのような11球団目の完封勝利であった。

セリーグでは大洋にしか所属しなかったため全12球団対戦はならなかったが、坂井の11球団完封勝利は2リーグ制以降に所属した選手の中でひっそりと最多記録となっている。

表8b-7-9 坂井勝二の11球団完封勝利

なおこれ以外では小山正明と稲葉光雄が10球団を完封している。小山は1973年に3球団目の大洋に移籍して阪神戦の登板機会を得たが、9月5日に6回5安打無失点と抑えながら7回に代打を送られたのが最大のチャンスで、この年限りで引退し結局達成ならなかった。1984年に3球団目の阪神で中日戦の登板を目指した稲葉に至っては2年間一軍出場がないまま引退してしまった。


以上、全球団からの達成者を見てきたわけであるが、昔、特に2リーグ12球団制が確立されて以降は記録を積み重ねる好選手が移籍するということ自体があまりなかった。したがって上に名前の挙がってきた選手の中には、この記録のおかげで浮かび上がってきたような選手も少なくない。

一方、交流戦やFAによる移籍の自由化など制度面で達成のハードルが下がった昨今のことであるから、今後も記録を達成する選手はごく普通に表れてくることだろう。どんな記録でどんな選手が現れるのかは今後の楽しみである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?