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トランスをパートナー、夫にもった女性たちの声

Home | Trans Widows Voices から、アリソンという一人の女性のオートガイネフィリアの夫との経験に関するエッセイです。
このサイトについての紹介を引用します。


トランスウイドウとは、性自認女性だったり、異性装だったりする男性パートナーや夫をもった女性(通常は異性愛者)のことで、 しばしば女性は、夫やパートナーがオートガイネフィリア(AGP)である経験も語っている。
このような状況にある女性は、男性パートナーがまるで死んでしまったように感じる。 パートナーや夫がトランスであることをカミングアウトし、性別移行を決意した場合は特にそうである。 その変容は通常、外見も性格も、自分が結婚した男性だと認識できないほど完璧なものである。女性は夫を以前の「出生時の名前」で呼ぶことを禁じられる。
このような状況に置かれた女性たちは、互いに集まって、共感しあえるために、自分たちの名前を必要としている。「トランスウイドウ」は私たちが選んだ名前であり、それによって私たちはお互いを見つけることができる。 このサイトは現在サポートグループではなく、トランスウイドウの経験を共有するためのものだ。しかしこれは、時間と資源が許す限り、将来的に発展する可能性があるグループである。



アリソンの語り Part 1   

デカップリング(親密な関係を解消すること)


何の心の準備もなく、一切の警告もなく、何の手がかりもなく、ただ、こう告げられたのです。 「私はトランスジェンダーとして生きることにした。」
私たちは結婚して33年経っていました。
 詳細はこうです。ここ数年ずっと、彼は、私が捨てた下着をゴミ箱から探し出し、私が留守のときに試着してきたのです。私に隠していたプライベートアカウントの電子書籍リーダーでレズビアンのロマンス小説を読んだり、私が寝た後、夜中に「トランスペアレント」(ポルノの一種)を見たりしていました。すでに彼は共通の友人とすべてを話し合っていました。彼は性別移行をするつもりですが、今すぐにとは考えていません。今のところ、カミングアウトするつもりはないと言っています。
 そんなこんなで、私は彼の秘密に引きずりこまれたのです。事実を言います。
彼はベッドで「女性の役を演じたい」と望んでいるのです。女性用のランジェリー、サテンやレースを身につけたいのです。彼は仰向けになり、脚を広げ、私が彼の脚の間の上に横たわることを求めます。挿入されたいと思っているのです。彼は、自分が性的に従順であれば、「女性のように 」感じることができると考えています。彼のために、私はこうしたことをしてあげます。私たちは性的な立場を交換しようとしているのではないのです。私は彼が着ているものを着たこともないし、彼が感じているものを感じたことがないからです。
彼はまた、私たちが2人の女性で一緒にいるかのような設定を求め、私に対して「レズビアンのように振る舞いたい」のです。私の脚の間に顔をうずめると、彼は自分の望むものを手に入れた喜びで喘ぎます: 私は君に夢中だ。私は君にとても恋をしている。とても感謝している。君が私にくれた素晴らしい贈り物を決して忘れない。
最初は、とても興奮します。
 やがて、興奮はなくなります。私は夫に戻ってきてほしいと思っています。私たち二人の体が、かつてのように語り合うことを望んでいます。そんなことは不可能です。というか、それは今禁じられているのです。彼は、自分の男性の体が嫌いで、男性の性的反応を拒絶していると言います。彼は「奪われること」「自分を捧げること」を愛しているのです。私には彼が求める女性が何なのかわかりません。彼はひげを剃り落とします。胸毛も剃ります。脇の下や太ももの間の毛も剃っています。体毛は男性的で、女性の肌はつるつるだと言います。でも、脚の毛は剃らないのです。誰かが 「察する」かもしれないからです。私にも体毛があります。脚にも、腕の下にも、顔にも。顔の毛を剃るとき、私は女性として明らかに失格だと思って恥ずかしくなります。
 彼は白いスリップや光沢のあるスカートなど、女性用の服を自分で買ってきて、家の中で身につけます。新しいしぐさも身につけます。作り笑いをしながら、顎を下げて、スリップの紐を落とすのです。だんだんと感情が高ぶり、あからさまに泣いて見せびらかすのです。女の滑稽なまねごとです。
 私が不快感、疑惑、苦痛を表現すると、彼は侮辱されていると言い、私をシスジェンダー、トランスフォビック、ターフと呼ぶのです。彼の秘密の生活を共にすることなど、私は納得していませんが、他に相談する人がいないのです。家族にも、友人にも、同僚にも言えません。そうすることは、彼のことを「暴露する」ことになるからです。
 なんの心の準備もなく、一切の警告もなく、何の手がかりもなく、ただ、こう告げられたのです。 「私はトランスジェンダーとして生きることにした。」私たちは結婚して33年経っていました。


アリソンの語り Part 2 やけどあと

 私の右胸に火傷の跡があります。上の方で、少し胸骨よりです。自分でやったことです。そう言うと、まるでわざとやったように聞こえるかもしれませんが、そうではないんです。ある朝、その症状で目が覚めたんです。
 私はその前月に夫と別れたばかりでした。3月の終わりでしたが、まだ冬のようでした。そして 私が引っ越したアパートは古い家の下半分で、私は地下の小さな部屋で眠っていました。メインフロアは広々としていて、部屋は明るかったので、私は地下室で眠ることにしました。ひんやりとしていて、暗くて、一人になることができたからです。夜になると炉が静かに単調に音を立て、寝室にした小さな部屋はまるで船のキャビンのようでした。離婚の嵐を乗り切るための安全な場所という感じでした。しかし、やはり冬でしたので、ヒーティングパッドでベッドを温め、それを胸に敷いて寝ながら読書をしていました。その夜、暖房の温度を上げすぎたのか、あるいは、いつもの肌を守るためのTシャツを着ないで裸で寝てしまったからかもしれません。翌朝、私は右胸の柔らかい皮膚に細長い火傷を負い、怒ったように盛り上がった赤い水ぶくれが1.5センチほどの長さでできていました。
 アパートに引っ越してきてから最初の数ヶ月は、大変な時期でした。週末になると、気晴らしになる仕事もなく、泣きながら部屋を歩き回り、立ち止まっては壁に体を寄せて嗚咽しました。最初は、火傷が、35年間の結婚生活の末に別れなければならないことに対する痛みの表れであるように見えました。
 不思議なことに、火傷自体は痛くなかったのですが、水ぶくれには気をつけなければなりませんでした。何週間か包帯を巻いていましたが、傷に触れないようにブラジャーをそっとかぶせたり、シャワーのお湯が勢いよく胸に当たらないように注意を払うたびに、まさにこの数年間、自分の体を守るためにしてきたことに似ていると感じました。火傷をしてから約半年後の11月、私の離婚は成立しました。1回目の裁判は「真実を語ることを誓いますか」と、裁判所職員は尋ねました。皮肉にも、昔、結婚式のときに語った同じ言葉で答えました。「誓います」。
 私は夫に頼んでいたので、彼は出席しませんでした。だから、私は平静でしたが、裁判官が身を乗り出して、一連の質問の最後に、決まりきった問いかけをすると、私は動揺しました。「結婚生活は取り返しのつかないほど破綻していますか?」「和解の見込みはないのですか?」と彼女は尋ねました。思いかけず、私は涙があふれ、声を詰まらせてしまいました。まるで、裁判官の予想通りに反応したかのようでした。一方、私には、密かに、考えあぐねていたことがあります。 夫がある日突然やってきて、自分は男の体をした女だと信じている、性別移行したいと言い出したら、そう、あなたが思っていた結婚は終わりなのです。たとえ、あなたが望んでいなくても、3年間そうではないふりをしていても、あなたの夫がなんとか秘密の生活を送ることにしても、終わりなのです。しかし、裁判官はこんなくどくどした説明を聞きたくないとわかっていたので、吐き出したい気持ちをなんとか抑えました。私の弁護士と裁判官、書記官が離婚の日付について議論していたので、半分、聞くともなく聞いていました。そして弁護士は、離婚した私を法廷から連れ出しました。
 前夜、季節外れの早い雪が降ったので、アパートに戻ってから、その周りをぶらぶらと歩いてみました。赤や黄色の葉がまだきらめいていた木々もまた、雪化粧をして、まるで不意打ちを食らったかのように見えました。私は手を伸ばして雪の積もった枝を揺らしてみました。午前中の法廷での奇妙さを払拭できるかもしれないと思ったのです。教会の聖域と円形劇場の組み合わせた法廷、高い壇上でスポットライトを浴びる裁判官、全く同じだった最後の締めとしての「誓います」という言葉。
 その夜、とても冷たい霜が降りて、イチョウはいつものように葉を一斉に落としてしまいました。外を見ると、イチョウは雪の地面に敷き詰められ、すべての枝がむき出しになっていました。その時、私は、そうだ、これで本当に終わったんだ、と思いました。
 水ぶくれが治り、火傷がすっかり治るまで長い時間がかかり、少し盛り上がったピンク色の傷跡が残りました。ある日、シャワーを浴びながらその傷跡を見て、今は別れた夫は私の胸のこの跡を見ることはないだろうと、ある種の衝撃をもって悟りました。何十年も私の体を熟知していた男は、この新しいことを知ることはないだろう。この傷を見る可能性があるのは、元夫以外の誰かだろう、でも、私の年齢を考えると、新しい恋人の可能性があるとは思えませんでした。
 私は、この見えない傷跡が元夫と私の間に最後の断絶を示すものという悲しみと、この傷跡は私だけのものであり、医者を除いては私だけが知るものだという怒りの間で揺れ動いていました。女性の胸は良くも悪くも共有財産であり、私の胸もそうでした。彼氏や夫に愛撫され、子どもは貪欲に自分のものにしようとしました。離婚を切り出したのは私なのに、私は離婚を望んでいませんでした。そして今、私は老いて一人、自分で作った傷跡を背負っているのです。
 夫が求めていたのは何にもまして、胸でした。夫が女性になりたいという願望を理解する前、まだ自分と繋がりがあると信じていた頃、繋がっているために、夫婦でいるために必死だった頃、私は夫に、自分が女性であることを想像するために私の体を使ってみたら、と言いました。ある夜、私は彼をベッドの端に座らせ、二人とも裸で、そして、彼の前に立ち、彼の脚の間に入り、彼の胸に背を向けました。そして、彼の手を取って持ち上げて、私の胸を触らせました。「想像してみて。これはあなたのものよ」と言いました。 私を使ってみて、つまり、あなたの欲求を満たすために。しかし、他人の胸を触っても、当然にも、自分の胸を触っているようにはまったく感じません。自分の胸を触る、それが彼の欲望なのです。自分の乳房を愛撫することなのです。
 彼が買ったバストフォームは重くて異質な感じがして、自分がなりたい女性ではないことを思い知らされるだけだと言いました。彼は自分が太っていてよかったと思うことにしました。なぜなら、太っていると、脂肪に助けられて、「なんとなく、それなりの」と、おどけながら言うような胸が手に入るからです。彼は新しいブラジャーを買いました。サテンとレースのものでしたが、男性用に作られたもので、ウェブサイト上では女性的な魅力を備えたゲイの男性たちがモデルになっています。ブラはよくフィットし、自然に感じられました。彼は、自分の「なんとなく、それなりの」胸を包み込んだり、魅惑的に肩を下げたり、ストラップを下にずらして自分を露出し、乳首を弄ったり、私を誘ったりして楽しんでいました。「来てよ」というメールのタイトルで、自撮りの写真を送ってきましたが、職場では開かないようにしていました。
 特に覚えているのは、彼の長年の願望であった足の毛を剃ってあげた翌朝のことです。カミソリとタオルを片付けて振り返ると、彼が目を閉じて両手を胸に当てて立っていたのです。はっとする衝撃を感じました。ジェンダー肯定手術を専門にするタイにあるクリニックのウェブサイトで見た写真のキャッチフレーズ、「乳房と会話するトランス女性」を思い出したからです。やがて私は、夫が愛人を作ってベッドに連れ込み、自分への手が彼女への手にもなっているような気がしてきたのでした。
 息子を出産した後、私は母乳で育てることを選びました。母乳育児は、妊娠中の親密さの延長のように感じられました。私は息子のことを知り尽くしていました。私の体内での息子の動きから、起床時間と睡眠時間がわかりました。それは生まれた後も変わりませんでした。息子が好む体位には笑ってしまいました。この体位(頭を下にやって、私の恥骨に押しつけ、お尻を一方に向け、足を斜めに長く伸ばす)を6カ月で決めてから、決して外れることはありませんでした。(私はこれを「ラッキー7」と呼んでいました)。   私はよく自分のお腹の両脇当たりを撫でたものでした。そこに息子の固い踵や、お尻の筋肉質の丸まった形が感じられました。生後数週間、息子のコナーは、夜、私たちのベッドのそばのベビーベッドで眠り、授乳のために私たちのベッドに上げ、彼が乳を吸う間、私はうとうとしていました。別の部屋にあるベビーベッドで眠るようになると、そこのロッキングチェアに座って、コナー・ボナー、コンスター・ボンスター、コンスター・ボンスター・モンスターといったくだらない韻を踏んで、授乳中に歌って聞かせました。ボンスター、ボンスターション、コーズド、サム、コンスタネイショ・・・息子は私の指を握ったり、開いた手を軽く胸に当てたりして、私の歌のテンポに合わせて乳を吸っているように見えたのです。
 夫は私の授乳を見るのが好きで、ある日、私の胸にいる息子の写真を撮りたいと言ってきました。私は内心抵抗がありました。というのは、カメラを向けられることに意識しすぎて、がっかりさせたくないという気持ちがあったからです。母乳が十分に出るかどうかいつも不安だったし、しかも夫がカメラを構えてアップで撮影することに気持ちの高ぶりもありました。しかし、私はためらいを捨て、赤ちゃんと私の絆に父親が加わることで、家族3人の絆が深まるのだと自分に言い聞かせました。
 夫の元を去る時、彼が撮った息子のアップの写真が入ったベビーブックを持って出ました。新しいアパートのクローゼットの棚にしまう前に、座ってその本に目を通したのですが、その写真に私の顔がないことに、全く新しい衝撃を受けました。私の乳房と、乳を吸う赤ちゃんの顔だけが写っているのです。ある写真では、息子が私の乳首に口をつけ、上目遣いになっています。私は心の中で、写っている部分を拡大し、写っていない部分を理解しようとしました。赤ちゃんはただ上を見ているのではなく、私を見上げ、私は息子を見下ろし、お互いの目を合わせていたのです。
 夫から聞いた話と照らし合わせながら、私はおかしいと思いました。夫は私の胸だけを写すために、切り取り方を決め、ピントを合わせ、そして何年も撮った写真を眺めてきたとき、私ではなく、そこに夫自身を置き換えていたのではないだろうか? 「想像してみて、この胸はあなたのものよ。」と私は言いました。私を使って、つまり、あなたの欲求を満たすために。もしかしたら、私の知らないうちに私から盗んだブラジャーやパンティーを使ったように、彼は何年も前からそうしていたのかもしれません。
 ベビーブックの前のフォルダには、大学院時代の友人で職場の仲間が撮った妊娠7カ月の私の写真がもう1枚しまい込まれていました。ダイアンとパートナーのマリリンは古い大きな家に同居していて、ダイアンは2階の小さな書斎で、妊娠6カ月と7カ月の時の私をモノクロのポートレートで何枚も撮影してくれていました。このヌード写真では、私は妊娠7カ月で、布団の背もたれに座り、下から撮影され、私の胸とお腹に焦点が当てられています。私の胸は腹部の膨らみの上に持ち上げられ、乳首の乳輪は黒く、へその上のかすかな妊娠線が視線を上に誘導します。私の顔は、父がニューヨークで働いていたときに被っていた中折れ帽の下で静止しいて、目も唇も笑っておらず、表情は謎めいてきっぱりとしています。
 この写真は、彼女が撮ったポートレートの中で一番好きでしたが、私はこれをベビーブックに飾ることができないと思っていました。母親の裸を息子に見せるのは恥ずかしいと思い、別にしていたのです。しかし、今となっては、この写真だけが、夫の固く閉じられた秘密に汚されていない、唯一信頼できる写真のように思えます。だからベビーブックから取り出して、本棚に開いて立てかけています。
 アパートに引っ越し、火傷を負ってから約1年後、私の傷跡に対する思いは変化し始めました。傷跡は、困難な経過や怪我からの回復、逆境に打ち勝ったことを示すためにわざわざ入れた刺青のように思え、記念となるものとなりました。元夫が私の胸の様子を見ることがないこと、私の胸に関する彼の記憶が不鮮明になったことに満足感すら覚えるようになりました。私の胸は、私の女の胸は、彼の手の届かないところにあり、彼の知るところではもうないからです。
 アパートに引っ越してから、もう2年が経とうとしています。しかし、この5ヶ月間、私はその家から1000マイル離れたところに住んでいました。私は育ったコロラドの山奥に戻り、妹のあと引きついて、93歳の母の介護をしています。私は数か月で、家に戻るので、今は兄と一緒に介護者の手配をしています。私の息子は、実に何年も、「仰天」させてきましたが、大人になりました。胸の火傷跡はシャワーを浴びると、まだ赤くなり腫れてきます。しかし、今は以前よりは小さく、乳白色の指先くらいになっています。元夫は一人ですが、かつて私たちがすごした家で、ときおり彼女になる彼自身と暮らしています。

(終わり)

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