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夏の一夜、足利の庄 袖山誠一

 昭和二十三年と言えばだいぶ昔の話で、敗戦復興の最中であった。僕の住んでいた町、足利は機織(はたおり)の町で、朝から一斉に町中で、はたおり機械が動き出しその喧騒の渦の中に飲み込まれたようだ。足利銘仙といえば大変人気のある反物で。関西方面からの取引が多く、活況を呈していた。一言でいえば、町中が織物産業で沸騰していた。

 町の中心にある鑁阿寺(ばんなじ)の夏の夜祭が、ここの人たちの待ち遠しい毎年の楽しみなのだが、今日から始まり、とばりが降りる頃になると、そちらの空が明るい。祭りのかすかな賑わいも聞こえてくる。なんとなく落ち着かない。

 そんな中、父が突然帰ってきて「誠一、祭りに連れていってやるぞ、用意しろ」
全く予期していなかったことなので、驚きと嬉しさが混じってカーッと熱くなった。祭りに行く支度なんか簡単。顔と手足を洗い、後はよそ行きのシャツとズボンを履くだけ。だけど父と二人だけで出かけることは初めてだ。嬉しい。縁側に腰掛け、足をブラブラさせ、奥で用意する父を見ていた。母が祭りに着てゆく父のダボシャツ、開襟シャツ、麻のズボンを用意している。

 父は周りを凝視し、それから慎重に押し入れの奥から、重そうなカーキ色した鋼鉄製の拳銃函をゆっくり取り出した。刑事が使う小型のコルト45を、ショルダーベルトごと取り出し、首から脇に締め付けた。上にダボシャツそして開襟シャツをはおり、全くわからないようにした。

 父に手を引いてもらうのはこそばゆい。そろそろ境内だ。人、人、人すごい。しかしすれ違う人との浴衣の袖と触れ合うのがにぎわい、そのにぎわいが嬉しい。

 先が見えぬほどの人出だが、ゆっくりした流れでそれが何とも心地いい、歩調に合っている。夜店もだいぶ出ている。目移りしながら一通り一回りし。わた飴などをいろいろ食べ、夜店を見る。でも、見飽きない、もっと見たい。

 風船釣りの前で「ねえ、お父さん金魚も一緒に泳いでいるよ」父も座り込んで「そうだな」僕のやりたそうな様子を見て「オヤジさん、二つください」と、針金の引っかけを頼んだ。たのしくって夢中だ。結構釣れる。

 いつの間にか父は立って「光」というタバコを吸っていた。しかも「えっ、何だいつものおじちゃんたちがいるじゃないか」父に寄り添うように三人のデカがいるのだ。父は下を向き、僕の頭を強く掴むようになで、それから「オヤジさん息子を遊ばせてやってくれ」そう言って、十円札を数枚手渡した。さりげなく四人は振り向き、ゆっくりと人波の中に見つけようとするものに向かって、動き出す。

 靴音でわかる。しばらくすると、砂利を蹴散らし小走りする激しい音に変わった。それが小さくなり消えていったが、無性に今でもこの音がこびりついている。

 そしてその時とっさに「僕も警察官のせがれだ、不安などしてないさ。しばらくすればいつものように帰ってくるし平気だぞ」と、へんに腹をくくって度胸だけは身についていた気がする。当時四歳。

 あの一夜それは鮮明に記憶にあり、忘れられない。あの店の裏にあった、大銀杏が今はない。不思議だ。他にもあり得ないようなことだらけだ。やけにカーバイトの眩しすぎる光に照らされた、人の顔や瞳のキラキラする表情、その陰に迫る闇の不気味さが織りなす一体感。まるで氷で心を撫でられるようなヒヤリとした冷たさがあった。それがとても美しい。

 それに加え、韓国や中国の人たちの話し声、怪しげな輩、獣のような動きの集団、それこそ百鬼夜行さながらだった。しかし鑁阿寺にはそんな何かを漂わせているものがある。

 あれから五十年の歳月が流れた今も、時折ここを訪れる。とにかく感じるのは、異常なほどに感じる境内の広さ。でも京都の寺は、同じように皆広い。平安時代の牛車がまるでそこにあるかように感じる、そんな錯覚に陥る。

 あーそうだ。まるでそこに足利尊氏のウゴメキが見て取れるように感じる。
 鑁阿寺界隈は鎌倉の町にある小さな界隈と似ている。京都六波羅とも縁遠くないようにも思えるではないか。人間的にいえば親戚のようだ。
 若き風雲児足利尊氏の激動の生涯の動きそして、その行動の痕跡がそのように鎌倉をそして京都を変えて行った所作の結果なのかもしれない。

 そう思った時、一人の武将の生きて形作った歴史が今街として残されて、このように何ともいえずこの地を去り難く。いつまでもここに居座り続けたい愛着心が募るのであろうか。
 今無性にここが好きになった。鑁阿寺が私にくれた今の答えを知り。もう一度さらに深く知りたくなった。「あっそうだ、京都に住もうか、そしてもっと知りたいあの時代を、あの男を」尊氏の実家である鑁阿寺。
 
 美しいと思う、足利の荘。


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