新潟でジタバタした4年間

先日、4年間関わった新潟の映画制作が終わった。3本の新潟を舞台にした映画をつくった。3本ともドラマ映画だが、思い返すと、この映画づくりにも様々な人間ドラマがあった。いきなり最初の会議からエピソードがある。武蔵野美術大学で教鞭をとっている私に新潟のPR映像をつくって欲しいという依頼があって、会うことになった。会議の席で、話を聞いているうちに予想に反してワナワナとし始め(子供っぽくて申し訳ない) 私は思わず机を叩き「映像をナメてます。帰ってください」と言ってしまった。何をPRしたいのかと問えば「何もない」と答え、予算はどのくらいかと問えばアルバイトのお給料かと思うほどのものだった。学生につくらせれば安く上がりそう、という昨今の産学協同プロジェクトの悪い方の例に近かった。それほど自慢できるわけではない自分の映像の講義でも学生たちに一応は真剣につくろう!と言ってきている。学生たちに依頼する前に大人たちの姿勢を正すべきだと思った。ああ、この話は消えてしまったなあと自ら依頼を潰してしまったことに流石に落ち込んでいたら数ヶ月後に、その会議に出席していた担当者からもう一度話を聞いてくださいと連絡をいただいた。この時点で私は「お請けしよう」と心に決めた。そしてあらためて設けられた会議の席上で「現代の日本の人々が忘れかけた豊かさ。生きる厳しさのそばに寄り添う優しさ」を描こうと「映画」をつくることになった。早速自分の大学の映像のクラスに話を持ち込んだ。地方創生や活性ということにはまだまだ興味を持てない世代たちだ。しかし、映画というものを一度はつくってみたいと思っているメンツたち。彼らに地方が抱える問題を共有しても、そこから湧き出てくるものはきっとリアリティのないものになるだろう。だとしたら新潟へ連れて行って映画づくりを通して楽しむことが、彼らにとってもいい記憶となって残ると考えた。学生作品だから、という言い訳をしないためにも、私が普段映像の仕事で進めるプロセスをそのまま持ち込んだ。シナリオハンティング、原作の執筆、脚本、オーディション。役者のオーディションでは小平の片田舎の大学に20人ほどの役者がやってきてそれぞれその役を手にしようと必死に演技をする姿が教室で繰り広げられた。この時学生たちは「あ、大人たち、本気だ。」と思ったはずだ。空気が変わってきた。集まってくれた役者は3人。引く手あまたのモデルのるうこちゃん(芝居のお仕事への意欲がすごかった)、劇団昴からベテランの西村武純さん(その後は飲み会のボスというポジションへ(笑))、若手の注目株の桑原良太くん。そしていざ、撮影。4Kカメラ2台、ドローンをはじめ照明、音声、衣装、メイク。20人近いスタッフで撮影が行われた。監督は監督志望で手を挙げた学生三人という構成。シーンごとに監督した。その後の編集、MA(音響)、カラーグレーディング(仕上げ)、そして主題歌を学生が作詞作曲しレコーディングスタジオでスタジオミュージシャンに演奏してもらいながら録音した。さらにはポスター製作、宣伝、上映会まで。きっちり映画づくりをなぞらえていった。そうして新潟県新潟市西蒲区の映画「にしかん」が出来上がった。学生たちの「ここまでやるのか!?」という驚きや、呆れや、疲れを包みながら達成感に満ちた地元での上映会には500人を超える方々が足を運んでいた。

新潟でのミッションを終えやれやれ、と思っていたらまた連絡が入った。先の会議の席上で「PRとかは3年くらい続けないと意味がない」という意見を言っていた。だから「二作目を」という話。3年というのをすっかり忘れかけていた私は即座に考えた。一作目「にしかん」でその場所のいいところをほとんど網羅してしまっていた。他に舞台になるような場所はあるのか?また学生たち、今度は後輩たちに引き継がせるような名物演習にでもするか。そこでふと思った。四季を撮らなければいけないのではないかと。瞬間的にどのくらいの手間と時間がかかるのかが想像できた。1年間撮影する。題材は新潟の地元の人間ドラマ。間違いなく自分の東京での仕事を圧迫するはずだし、学生を巻き込むとなれば相応の高いモチベーションを持った人を集めないといけない。四季を撮るということをNHK以外の民間で、しかもかなり限られた予算の中で企画する人はいないだろう。私自身尻込みをした。悶々と考えていたのが2017年の4月初頭。四季の春を撮るなら今すぐ撮らなければ桜が散ってしまう。「えいっ!」とばかりに担当者の方へLineを送った。「四季折々の風情の中で人間ドラマを描きます」と。割と軽めに「いいですね!」と返事が返ってきてやれやれ、言ってしまった、と思った。

第二作目は自身が監督をすることにした。言った責任というのが一番の理由。まだ何も決まっていないのに、脚本などが一切ないのに撮影しなきゃいけないという状況を製作統括の立場で誰かに監督をお願いできるような状況でもなかった。もうやるしかないという気分で他の仕事が終わって夜中に脚本を書いた。同時に信頼するキャステイングの方に見せ「とにかくやる気に満ちていて野心がみなぎっているような役者を」と頼み、即日資料が送られてきた。女優候補に山田由梨さん(後にこの方が大変有能な劇作家であることを知るのだが。。)、男優候補に大内田悠平くん(TBS日曜劇場に出演する気鋭の俳優)の二人。すぐに会いたいと伝え、会った。まだメモ程度の脚本を一生懸命読んでくれて、主人公たちのキャラクター設定を考えてくれた。この人たちと映画をつくりたいと思えたのがいちばんの収穫だった。そして桜が満開をちょっとだけすぎた日、慌ててみんなで向かった。強風でセリフがまともに撮れない。何度も撮影が中断する。そもそも予算が限られているので1日で撮る必要がある。前作「にしかん」では20人だったスタッフはたった5人。ああ、これを少なくとも後3回やるんだなあとどこか他人事のように眺めていた自分もいた。夏以降の脚本はまだ何も考えていなかった。タイトルは「ハモニカ太陽」と名付けた。主人公の女性が結婚し、その後娘にハーモニカを教えることを通して人生の楽しさを教えるというあらすじだけは考えていたからだ。いやこれは実は私の母のやっていたことをモチーフにしているのだが、役者たちには伝えなかった。

春編をなんとかつくって次は夏編。実は春編を考える上で前作「にしかん」の物語の前のお話、時代を遡っているといういわば続編としてつくり始めていた。いくつか前作の登場人物から、今回もその若かりし頃という設定で登場させることになる。慌てすぎて準備が不十分だった春に比べて多少は準備ができた夏編からは二人の重要な助演の役者に登場してもらうことになる。女優は村上穂乃佳さん、男優は原田隼人さん。二人とも今回はオーディションをして決めた。実力と個性が光っている二人だった。役者が四人になった夏編では本物の夏祭りの最中に撮影が行われた。新潟市西蒲区の巻という地区で行われた竿燈(かんとう)まつりと花火大会。役者たちと撮影の合間に金魚すくいをしたり食べ歩きしたりして、ああ、やっぱり映画の現場はいいなあと噛み締めたものだ。

秋になるとさらに登場人物が増えた。娘役(苑美ちゃん)、郵便局員役(岡崎森馬くん)。物語はここから一気に佳境に入る。脚本の能力の限界を感じていたので同じ会社に所属する脚本家の唐津宏治に助けをお願いした。見事にこれまでの経緯や今のムードを咀嚼した脚本が即座に送られてきた。東京ロケも加わり、本来目指していた「地方と東京という関係で生まれるドラマ」「将来というものを考える」という要素が加わり、単にその場所を舞台にしたおきまりのPR映画というものとは一線を画す物語になってきた。母役に待ち受ける「死」という誰もが当たり前に直面する題材もPRとして入れていくという珍しい試みに挑んだ。

一年撮影に費やすと言って始まったものの最後、冬のドラマの締めくくり。舞台は新潟である。当然欲しくなる雪景色。少数のスタッフ。限られた予算。役者たちの拘束日数もかなり限られている、加えて子役が入ったことによってかなりスケジュール計画は至難の技と言えるようなものになっていた。2018年の年明け早々に新潟に雪が降るという天気予報を毎日テレビとにらめっこをする毎日。ある日突然、きた。しかも20年ぶりの豪雪だという。待ってましたと助監督と二人だけ。ジープに乗って新潟へ向かう。急な話なのに主演の大内田くんも来るという、助演の原田くんも来るという。とりあえず雪景色だけでも撮っておこうととりもなおさず向かった新潟で急遽冬の物語の撮影が始まった。そこから一週間、東京へ戻ることを諦めて新潟の風景を撮り続けた。とりわけ夜中の星空の撮影は-13℃の中じっとカメラを回すというのが本当に体にこたえた。

ようやく揃った新潟の「四季折々の中での人間ドラマ」の素材。あとは編集と仕上げ。私は当初の責任を思い出しながら会社の編集室にこもりきりになった。一歩も部屋を出ることなく、食事は蕎麦屋の出前で乗り切り,丸々一週間ぶっ通しで仕上げた。挿入歌に坂本九さんの「見上げてごらん夜の星を」をシンガーソングライターの宮原良仕子さんにカバーをお願いし、主題歌提供に盟友 藤巻亮太くんに「8分前の僕ら」をお願いした。もう階段もろくに上り下りできないほどになりながら二作目「ハモニカ太陽」が完成した。おなじみ巻の文化会館での上映には500人ほど、そして徳島で開かれた徳島国際映画祭ではオープニング上映作品に選ばれ600人ほどに観てもらえた。肩の荷が下りたような気分だった。実際、徳島の映画祭から帰ってきて5日間も寝込んでしまった。

さて、一作目も二作目も賞を受賞するという高い評価をいただいて、いよいよシメの三作目。今度は製作統括という立場で若手の監督に依頼しようと決めていた。登竜門のようにこの映画プロジェクトを生かそうとも思っていた。そして白羽の矢を立てたのが藤代雄一朗監督。同じ職場の若手ではあるのだが、地方への理解度、ドラマ演出への意欲、MVをベースとした監督実績。彼にも映画の楽しさを味わって欲しかったし、新潟という場所を好きになってくれるだろうと思えた。そして私自身は前二作というのを残しているので、この続編を依頼し、一方で前の二作が藤代演出の足かせにならないよう、一切口を出さないことに決めた。だから、実は三作目のエピソードはほとんど書くことがない。(これは観ていただくしかない。私自身完成披露の上映会で初めて観た。ゲラゲラ笑ってオイオイ泣いた)

先日の2019年4月20日、三作目「ボケとツッコミ」の完成披露上映会が巻文化会館で行われた。主演はTBS日曜劇場の陸王に出演した内村遙くんとベテラン俳優であり自身も演出をされる内田紳一郎さん。お二人もいらっしゃっての藤代監督と一緒に舞台挨拶。私自身は製作統括として挨拶をさせていただいた。誰かに新潟の西蒲区を好きになってもらおうと思って始まった映画づくり。すっかり好きになってしまったのは誰でもない私自身が筆頭になった。もはや西蒲の風景はどこもかしこも知っている。ひょっとしたら地元の方より詳しいかもしれない。本来PR映像というのは風光明媚な風情と美味しい食べ物、伝統的な観光地の紹介が普通だ。4年前にうつむき加減で聞いた「何もない」という言葉。自分の地元を紹介するときにこの言葉をつい発してしまう人にはぜひ観て欲しい三本の映画を残しました。流行り廃りの時代にふらつかない物語を創作して地元自慢の映像にしたつもりです。今すぐじゃなくてもいいです。ああ、なんか、田舎っていいよなあ、とか、優しさに触れたいなあ、とか、生きる、とか、将来、とか、人生、とかそんなことが頭によぎったときに観てください。今週末、東京で三作品の上映会があります。そこで一旦節目。関わった全ての方々に感謝いたします。どうもありがとう。そして、失礼な物言いから4年間、信頼して任せていただいた新潟市西蒲区役所のみなさんどうもありがとう。

映画の公式サイトはこちら https://www.nishikan.info

上映会はこちら https://factory0003.peatix.com/

またどこかの物語で。