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幻のロシア戦略原潜「タイフーン」を追え

  輪ゴム、テレビの室内アンテナ、パンティストッキング、男性の性器。世の中には伸びたり縮んだりするものが沢山あるが、その中でも伸縮がもっとも著しいのは「時間」だと私は思っている。

 例えば、1時間という時間は熱愛する恋人同士にとっては春一番のごとく瞬く間に過ぎ去ってしまう。一方、マンネリ化した学校の授業では先生にとっても生徒にとっても同じ1時間が軒にへばりついたナメクジよろしく遅々として進まない。

物理的には均一なはずの60分が我々の感性の中ではゼロから無限大まで自由自在に伸び縮みする。こんな代物はおよそ孫悟空の如意棒以外には思いつかない。

私の取材経験からすると、この現象は文化や習慣の異なる海外へ行くとさらに酷くなることが多い。タイに人身売買のブローカーの取材に行った時がそうだった。取材相手と朝10時に会えるというので首都バンコックの某ホテルのロビーで待っていたが、約束の時間を1時間過ぎても現れない。電話もかかってこなかった。

滞在時間が限られていてやきもきしている私の前に彼らが姿を現したのは、陽も沈みかかった夕刻。彼らのひとり曰く、

「いやぁ、ちょっと遅れました」

 それではいつも遅れるのかと思うと事はそう簡単にはいかなかった。お昼に会おうと約束した相手がなぜか朝8時からロビーで待っていたりした。同行した若いディレクターはこの異常なペースにとうとう腹部を押さえて寝込んでしまった。

 時間を気にしながらキリキリ胃を痛めている我々日本人と比べ、タイ人の時間ははるかにゆったりと自由に流れているようだった。(勿論、タイの人すべてが約束の時間を守らないと言っているのではない)

 ちなみにタイは仏教国。仏教では人間世界の50年は天界の一番低いところ「下天」の一昼夜にしか相当しないそうである。

 もうひとつ海外取材にまつわるお話。国家最高機密のベールに包まれた世界最大のロシア戦略原子力潜水艦「タイフーン」(ロシア語で巨大な鮫を意味する)の姿を求めてロシア各地2万キロを半年がかりで旅したことがあった。なにしろ1隻で120近いアメリカの主要都市を同時に核攻撃できる怪物だ。トム・クランシーのベストセラー小説『レッドオクトーバーを追え』のモデルとなった秘密原潜である。

 まず新潟からアエロフロート機で日本海上空を2時間ほどトンでハバロフスクに入った。ウスリー川とアムール川の合流地点に位置するハバロフスクは人口60万人(1993年当時)の風光明媚な極東の中心都市で、私が訪れた6月は新緑で溢れ、冷たく暗いシベリアのイメージとは程遠かった。人々の表情にも開放感が漂い、ソ連時代とは様変わりしていた。

 ソ連邦崩壊と東西歴戦の終焉でその態度が急変したのは軍隊だった。それまで鉄の扉のごとく外国人の取材を拒んでいた軍人が一転して協力的になった。好奇心からついでに訪れたハバロフスク郊外の極東軍戦車部隊本部では、おっかなびっくりの私を装甲車に乗せて訓練コースを走ってくれ、土産に軍の水筒までくれたのには驚いた。

 しかし、握手をしながら「将来が不安だ」と呟いた若い兵士たちとって、一日一日がいかにも重苦しく続いていた。

 ハバロフスクから次の目的地、ロシア太平洋艦隊本部があるウラジオストクにはその夜列車で向かうことになった。列車と言ってもただの列車ではない。

 鉄道部隊の大将専用車両を一両貸し切りにしてしまったのだ。車中は決して清潔とは言い難いが個室が二つ、4人部屋が一つ。個室には風呂とトイレがついていた。さらに広い共用スペースにはくつろげるソファーと6人程度で食事ができるテーブルと椅子。映りの悪いテレビまであった。

 その上、車両専用キッチンには廊下で擦れ違うのが難しいほど太ったおばさんが料理人として付いていた。キッチンの床には長さ1メートルもあろうかというナマズが一匹。「夕食用だよ」と、西瓜が二つ並んだような胸を揺らしておばさんは笑った。

 民衆が経済困難に直面する中でもロシア軍のトップは相変わらず楽な生活をしているのだとジャーナリスティックな義憤を感じつつも、その「贅沢」に身を任せて列車はゆっくりと出発した。

 同乗したのは私を含めた東京からの取材班4人、ロシア軍関係者、取材に協力してくれたロシア人ジャーナリストの計7人。しかしそこでもせっかちな日本人と大陸型のロシア人との時間の感覚のずれが顕著になった。とにかくウラジオストクに到着する前に取材の段取りをキチンと決めておきたい我々に対し、ロシア側の態度は「そんなことは目的地に着いてからでいい。今はナマズの唐揚げを肴に祝杯をあげる時だ」とばかりにウォッカをすすめる。

 「いやいや我々としては今確認しておきたいことがある」といってもダメ。なにしろ5分おきにウォッカで乾杯するので暫くすると全員すっかり酔っ払って意識朦朧になった。こうなって初めて車内の日露両国の時間感覚がぴったりと一致し、夢の世界に入った。

 じつはこの連中(失礼!)とはウラジオストクから次の目的地で潜水艦関連施設のあった閉鎖都市コムソモリスク、そして再びハバロフスクへの帰路と、合わせて4日間列車の旅を共にしたのだから堪らない。毎夜話し合いは険悪になり、その都度ウォッカの一気飲みで終わった。

 だが未明に汽笛に起こされ、荒涼たるシベリアの景色の上に白々と明けていく空を車窓から眺めていると、いやがうえにもロシアの大きさを感じずにはいられなかった。そんな時、日本人である私の「時間」感覚はぐーんと伸びてロシア人にそれにとても近づいた。

 取材の方はというと、「タイフーン」は結局極東には配備されておらず、紆余曲折あって最後に辿り着いたのは北極圏の軍港ムルマンスクだった。そこで意外な展開があった。

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