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人の言葉に一考の価値あり。

 中学1年生の頃。
 少し早めの厨二病を発症していた私は、どうにも擦れた考え方をしていたように思います。くだらないことばかり。つまらない話ばかり。全校集会は退屈、授業も退屈。本でも読んでいた方がずっと有意義だ、と。

 夏休み明けて二学期。いよいよ鬱々とした感情に荒れていた或る日、学年主任のY先生に呼び出されました。

「K先生のことなんだけど。」

 Y先生は穏やかに、しかしジッと私を見つめて言いました。K先生はまだ若い英語の先生で、授業の進め方や課題内容や評価方法に納得のいかなかった私は、授業中に持論を展開する彼女に辛抱ならなくなり、反駁から討論に持ちかけた後に論破して泣かせてしまいました。それを咎められるのだろうと身構えますと、しかし主任は短く、

「大目にみてあげてね。あまりいじめると可哀想だから。」

 どう戦おうか考えていたところに肩透かしを食らって、思わず「はい。ちょっとやりすぎました。すみません。」と私もしゅるしゅると落ち着きました。

「ところで」

 彼女は続けます。

「もう10年くらい前になるけど、渡邊君に似た子の担任をしていたことがあってね。その子、いろいろ荒れてたんだけど勉強はすごく良く出来て、それから、人の話をじっと聴いていたの。集会の校長先生の話とか、私も眠くなるようなときもね。どうしてだと思う?」

 皆目検討がつきません。くだらない話を聴いている暇があったら別なことをすればいいのに。

「その子が言うにはね、『どんな人の話からも、得るものはある』んだって。くだらない話にも、考えるきっかけが隠されていたり。それで人の話を聴きながら、色々なことを考えていたそうよ。」

 
 当時の私にとって衝撃的な内容でした。その人の話を理解して真意を考えなくてもいい
 思えばソクラテスの出会った「汝自身を知れ」も、彼は石板に彫られた言葉の意味とは異なる方向に読み取り、それを契機に彼は思索を深めていくことになりました。きっかけはどこに転がっているか分かりません。

 私は天啓を得たように、人の話を聴くようになりました。

 すると確かに、どんな人にもその人生から生まれる思考が言葉に乗っていることに気付きます。ときにそこから気付きを得て、行き詰まった考察の打開策を生み出します。あのときから私の人生はひとつ変わり始めたように思います。

 ここnoteには、数多の「考えるnoter達」が次々と文章を投稿しています。雑談どころではない価値が、そこかしこに在ると感じます。

 今日も私は手を合わせて感謝し、
 noteの宇宙に散りばめられた宝物を探します。


 拙文に最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました。願わくは、貴方の世界に訪れる一縷の輝きが、どこまでも強く羽ばたく力になりますように。


#noteのつづけ方 #読むことも継続ですね
#利益相反のない文章は面白い
#忘れられない先生 #学年主任のY先生 #某高校の特待生の話断ってすみませんでした #そのときの担任のO先生 #信じて応援してくれてありがとうございました #感謝しています #連絡先も分からないけれど #またいつかどこかで

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