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バタイユを理解するために(資料集)

 研究資料を集めてみました。資料のURLの後の画像は私のメモです。メモは資料に書かれている範囲を全てカバーしているものではありません。


ジョルジュ・バタイユ 「眼球譚」癒しとしての物語 神田浩一 1995

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/36322/files/ff012006.pdf

 これは「眼球譚」の構造を解説していますが、物語の書き方の参考になります。


 上記に関連して「主体の消失」について理解するヒント。

 「何らかのイマージュを凝視することでいまだ生きている「見る側=主体」としての私が、まさに死につつある「見られる側=客体」としてのイマージュへと同一化してゆき、遂には自己が消滅するという「脱我=恍惚」(extase)の境地に到る」

 確かに「目玉の話」の主人公である「私」は最初にシモーヌ、マルセルとの間で行われる行為の中で相手と自分を同一視している。そして書き手と登場人物も溶け合っている。


ジョルジュ・バタイユ 「わが母」の構造 白石敬晶

https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/1/19613/20141016133958827813/ELLF_5_33.pdf

 こちらも「主体の消失」の消失に関連して面白い記事です。


自然をめぐる思想 -バタイユにおける- 高橋紀穂

https://www.jstage.jst.go.jp/article/taiseikiyou/19/0/19_111/_pdf/-char/ja

上記は「目玉の話」の交通事故の場面で首と胴体が千切れかかっているのを見て聖邪が分割されていると書かれた意味がわかる。下から上が悪で、上から下が高貴という部分。


ジョルジュ・バタイユにおける時間思想の研究-歴 史と瞬間 和田 康

https://core.ac.uk/download/pdf/236045498.pdf

これを読むと「目玉の話」で主人公がしている行動の志向がわかります。


ジョルジュ・バタイユ論 序論  Taro Ogata

これは全文を読むと有料でした。


存在そのものの暴力性 ―バタイユにおける実存と道徳― 横田祐美子

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no103_07.pdf

 「真に生きる」とはどういう事か。


バタイユの構図 ――労働、死、エロティスム、そして芸術 吉田裕

https://www.seijo.ac.jp/graduate/falit-grad-school/europe-study/french-literature/azur17/jtmo42000000e2qw-att/AZUR_017_04.pdf


G.バタイユにおける連続性の概念 ー生命について 森亘

http://www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/~future/wp-content/uploads/2017/12/2017-004-a.pdf

画像は論文の前半のみ


ジョルジュ・バタイユにおける死 -反転する死 嗜好性とコミュニケーション 福島勲

https://researchmap.jp/2940130/published_papers/14079282/attachment_file.pdf

引用とコメントのみ

 「一人の人間と世界との関係が「私の死」を介することによって変化していくということ、より正確に言えば、主体がその世界に対して超越して行くという事態に他ならない。すなわち、死の瞬間、自分を取り巻く世界は、「私」に対して行使していたはずの支配権を失い、「私」はこの世界に無縁な存在、むしろ、この世界と同等、もしくはそれを凌駕する存在として自分自身を措定することになるのである。」
(これはバタイユでなくて著者の言葉)

死について
「人間が手にすることのできる最初にして最後の限界なしの自由である。私は死ぬということを担保として、世界からあらゆる服従の要請を拒否する権利を得るとともに、当然のことながら有用性や合目的性との調和から免れる権利を手に入れる」→ ただ、その主体は存在しなくなっている矛盾。
(これはバタイユでなくて著者の言葉)

→「至高性souverainet、または「聖性」

「傷口や裂け目、性器とは、何よりも、自己という存在の内実をなしている「内容物」が喪失される場、自己のアイデンテイティを構成している内容物を自己の外部に投げ出される場、言い換えれば、自己のアイデンテイティの輪郭が敢えて危機にさらされている場所」
(これはバタイユでなくて著者の言葉)

「死を参照することで、人間はコミュニケーションヘの契機を得るが、相互的に、コミュニケーションを見出すためには、死と出会う事が必要になる」
→ 「供犠とは、日常世界の中でこうした死との出会いを可能にする装置」
(これはバタイユでなくて著者の言葉)



 まだ検索すればたくさん出てきますが、書かれているベースが似たようなものになってきましたのでこれで一旦終わりにしておきます。
 いくつかでも読んでみますと「エロティシズム」の捉え方が変わってきたのではないでしょうか? 一般に「エロティシズム」という言葉を使いますとエッチな何かばかり想像してしまいます。こうして専門家の言葉を少しでも聞いてみるとそれが間違いだった事がよくわかりました。ありがとうございます。

 みなさんの参考にもなれば幸いです。


追加
 一つ追加しておきます。バタイユ本人について書かれたものではありませんがこれは読み易く、理解もし易い文章です。

未知なる者への相互性なき友愛 西山雄二

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