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山中源兵衛 自己紹介

源兵衛。なんだか聞きなれない昔のひとの名前ですね。その通り、江戸時代の終わりころから、初代の山中源兵衛から数えて7代ずっと、家業を継ぐものがこの名前を引きついできました。

余談になりますが、ここ京都には「山○源兵衛」という有名な老舗のご主人がお二人おいでになります。室町の呉服の大店「誉田屋」さんの山口源兵衛さまと、伏見の銘酒「神聖」で有名な蔵元の山本源兵衛さま。うちのように吹けば飛ぶような零細事業所とは大違いで、どちらも名実ともに京都を代表する老舗のご主人でかつ人望もあつい経営者様でもいらっしゃいます。私がまだ家業を継いだばかりのころ、名刺交換の際にはその大先輩たちゆかりのひとだと、光栄にも間違えられることがよくありました。

家業へ

さて、私が家業に本格的に入り込むようになったのは1991年、まさにバブル崩壊、日本経済が音を立てて崩れてゆこうとする真っ只中でした。もともと理系のSE志望で家業に入るつもりは全く無かったのですが、外堀を埋めてゆかれたと言いますか、親戚からのつよい薦めもあって断り切れず、なりゆきでやることになったのが実情です。

そのころお店を切り盛りしていたのは父と母の2人。体の不自由な父に代わって、親戚の大叔父がときどき、配達の手伝いをしてくれていた記憶があります。当時の家業(清課堂)は今とは大きく違って、神具(しんぐ:神社でもちいられる道具類)と煎茶道各御家元の茶道具の製造をしながら、一部生活工芸品をデパートさんやショップさんへの卸売りをしていました。お店は構えていたもののお客様はたまにいらっしゃる程度でした。父はデパートで催される「京都展」などのイベントごとにも積極的で、北は札幌、南は那覇へと百貨店回りをしていた時期でもあります。付き添って行った先の全国津々浦々デパートのお客様の声、郷土の文化に触れることが出来たことが今の私の財産にもなっています。

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ものづくりについて

手仕事については、家業を継いでいた父よりも、じつは作家表現活動を長く続けている母の影響が大きいと思います。もともと染織畑の母でしたがつぎからつぎへと新しい表現に挑戦していて、いつしか金属の世界に。私がものごごろついたころには前衛的なジュエリーを製作していたと思います。エスカレートして背丈ほどあるパネルを製作したり、ほそいほそい金属線をゆびとかぎ針で編んで、数メートルの高さの巨大なオブジェを製作したり。その活動を傍で見ているとともに、道具や金属材料を使って遊ばせてもらいました。

ただし、私はものの構造をかんがえること、美しい形をかんがえることや効率よく形づくる仕組みをかんがえることは大好きなのですが、根気よく手作業を続けることは大の苦手です。私の場合、苦手で嫌いだからこそ、お陰で手早く効率的に作業するクセと習慣が身につきました。逆に、手を動かすこと、ものづくり自体が大好きな人は、職工には本質的に向いていないのではとも思っています。自身の作業に時間をかけすぎてしまったり、自分好みに偏ったものを作ってしまったりと、顧客満足を追求する企業活動とは別方向へむきがち。そういう人は、趣味人や作家を目指すべきかもしれません。私はものづくり≒サービスと考えています。

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タイトルについて

noteのタイトルに使わせていただいている「髀肉之嘆」。書き始めた当初、知人から「読み方が判らない」との声をよく聞きました。日本語よみで「ひにくのたん」です。

家業に入ってはや30年近くが経とうとしています。そのながい時間の私の心境を表しているのがこの言葉でした。こだわりが強く自分の思い通りにならないと不機嫌になる父と長く仕事をしていたこともあって、当初から鬱積し悶々とした毎日を過ごしていました(たぶん、今思うと自分の思い込みで自分の行動を制限していたのだと思います)。私は畑違いから美術・工芸の世界へ飛び込んだことから工芸にかんする用語や歴史、基礎知識もまったく知らず、古いしきたりにも戸惑いながら父のもとで辛抱しながら(ときどきキツい言葉を口に出しての喧嘩もしていましたが)。理系のスキルや知識を活かすことも出来ず、目標も定まらない日々でした。

備曰、
「常時身不離鞍、髀肉皆消。
今不復騎、髀裏肉生。
日月如流、老将至、功業不建。
是以悲耳。」

劉備いわく
「常に馬の鞍から離れずにいたので、太もものぜい肉は引き締まってみな消えていました。
でもいまは馬に乗ることがないのでぜい肉がついているのです。
月日が流れていくかのように、老いもせまってきているのに、何の功績もあげていません。
そんなわけで悲しんでいるのです。」

すごくネガティブで内向きな心のように見えますよね。間違いありません(笑)。一方で、1995年ごろにはhtmlを駆使してウェブサイトを作ってみたり、2000年にはオンラインショッピングを導入してみたりとちょこちょこと小さなトライを続けてもいました。

企業活動の難しさ

かくかくしかじかあって、2007年に代替わりをしました。それまで名乗っていた本名「山中純平」から「源兵衛」を名乗るようになりました。そして、初めての正社員を1名迎えました。2009年に初めて海外での展覧会に出展したことをきっかけに、定期的に個展を開いています。ヨーロッパとアジアがほとんどなのですが、各地で様々な価値観・文化風習・歴史・生き方に触れる中いちばん衝撃と感銘を受けたのは、めりはりのある「働き方」でした。

例えばですが、週休2日+有給休暇5週(夏季1ヶ月長期休暇含む)って、なかなか日本にいると考えられないですよね。どうやったらこれだけ休めるだけの利益体質・構造を作れるのか??私の興味はいまもずっとここにあります。

ただ現実はそんなに甘くありません。多種多様な人が集合体として一緒に力をあわせて働く企業活動ですが、どんだけ動いても、会社の構造を変えようとしても利益は出ず理想とは程遠いまま。意気込んではみたものの、私は部下を率いるリーダーシップなんてものはかけらも持っていませんでした。

難しいと感じるのは人育て。人それぞれ、様々な長所と短所を持っていて、デコボコの石を積み上げ組み立ててつよい石垣を作りたい、自分の頭で考え決断し行動できる人を育てたいというのも私の理想なのですが、なかなか成しえることが出来ません。性善説にしたがって、自分の経験に照らし合わせて、向上心と独学の時間と機会、有意義な役割があれば、人はみな自身のちからで成長してゆくものだと信じています。ひとそれぞれとはいいつつなかなか一人前の仕事が出来ない人を見ていると、指導が悪かったのかとつい自分を責めてしまいます。技術職特有の「できる・できない」をどう折り合いをつければいいのやら。

テーマソング

「チータ」こと「水前寺清子」さん(古~っ!笑)の大ヒットミリオンセラー曲、「三百六十五歩のマーチ(作詞:星野哲郎さん)」をテーマソングにしています。これを書きながら調べてみると、なんと!私が生まれる1年前の1968年の発表曲だそう。どうしてまたそんな古い歌を人生のテーマに据えたのかは自分でもさっぱり判りませんが、ものごころついたころから頭の中で何十年ものあいだ、延々と繰り返しリピート再生しています。子どもでも解るシンプルな歌詞とメロディーですが、すごくいいですよ!

若い世代の方々はもちろんですが、自分の子どもにも知っておいてもらいたいのでここに書いておきます。

しあわせは 歩いてこない
だから歩いて ゆくんだね
一日一歩 三日で三歩
三歩進んで 二歩さがる

■「道具から知る錫師のしごと」はこちら





手仕事の次世代を担う若者たち、工芸の世界に興味をもつ方々にものづくり現場の空気感をお伝えするとともに、先人たちから受け継がれてきた知恵と工夫を書き残してゆきます。ぜひご支援ください。