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ベースアップと消費・・・随時更新

2023年12月13日
一般社団法人成果配分調査会代表理事 浅井茂利

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「恒常所得」の引き上げ

 実質賃金の低下によって消費は弱含みとなっていますが、日本経済では以前から、内需が成長に寄与できていない状況となっていました。コロナ禍前5年間(2014年→2019年)における実質GDP成長率と実質個人消費の成長率との関係を「主要先進国プラス韓国」の計8か国で比べてみると、日本以外の7か国は、いずれも実質個人消費の成長率が実質GDP成長率並み、もしくはそれを上回る成長率となっているのに対し、日本はゼロ%で、実質GDPの成長にまったく寄与していません。このため、実質GDP(金額)に占める個人消費(金額)の割合も、5年間で2.3%ポイント低下しています。物価上昇をカバーするベースアップは当然として、それとともに、構造的な消費回復策を講じていくことが不可欠となっています。

  ベースアップは、単に可処分所得を増加させるだけでなく、可処分所得に占める消費支出の割合(平均消費性向)を高める、という効果も期待できます。一般的に消費は、
*恒常所得、すなわち安定的に得られる所得
*生涯所得の見通し
に応じて行われる、
と考えられています。

 前者を恒常所得仮説、後者をライフサイクル・モデルと言います。「仮説」とは言いますが、これを提唱したミルトン・フリードマンがそう名付けただけであり、オーソドックスな経済学の世界では定着した考え方となっています。「世界で一番読まれている大ベストセラーテキスト」と言われるグレゴリー・マンキューの経済学の教科書でも、次のように記載されています。
*家計が財・サービスを購入する能力は、おもに通常の場合に受け取る、あるいは平均的に受け取る所得である恒常所得に依存する。
*多くの経済学者は、人々は彼らの恒常所得に応じて消費をすると信じている。
*人々の生活水準は、どの時点においても、年々の所得よりも生涯所得のほうにより依存している。

グレゴリー・マンキュー『マンキュー経済学Ⅰミクロ編』
(注)グレゴリー・マンキューはハーバード大学教授で、元・米国大統領経済諮問委員会委員長

 消費が恒常所得に依存するとすれば、消費拡大にとって、一時金の増額ではなく、恒常所得である基本賃金のベースアップが必須であることは明らかです。実際に、総務省統計局「家計調査」を用いて、ベースアップの取り組みが再開された2014年度以降の「実収入に占める定期収入の割合」と、平均消費性向との関係を見ると、定期収入の割合が高くなればなるほど、平均消費性向も高くなっていることがわかります。逆に、実収入に占める一時金(賞与)の割合が高くなればなるほど、平均消費性向は低くなっています。

 また、厚生労働省の『平成27年版労働経済白書』では、
*恒常所得仮説に基づけば家計はより安定的な所得水準を基に消費を決定することが予想され、恒常所得として捉えられる可能性の高い所定内給与が増加した場合、人々は消費行動を変化させ、その多くを消費に回す一方で、所定外給与や特別給与が増加しても消費行動は大きく変化せず、その多くは貯蓄に回るといった消費行動が起きる可能性がある。
*試算によれば所定内給与が1%増加した場合にマクロの個人消費を0.59%増加させる影響がある一方で、所定外給与が1%増加した場合は0.09%増、特別給与が1%増加した場合は0.13%増の影響しかないことが分かった。すなわち、賃金上昇の中身が所定内給与であった場合、家計は積極的に消費を増やすものの、賞与等の特別給与の増加による場合は消費への影響が限定的であることが分かる。
との分析を行っています。

 なお、厚生労働省『令和5年版労働経済白書』では、「フルタイム労働者の定期給与・特別給与が1%増加すると、それぞれ約0.2%、約0.1%分消費を増加させる効果をもつことが分かる。特に、定期給与引上げの効果は、フルタイムの特別給与額が1%増加することによる効果や、フルタイム労働者数が1%増加することによる効果よりも大きく、消費を増やすためには、企業の業績に左右されやすい賞与だけではなく、定期給与を着実に引き上げていく必要があることを示唆している」との記載がありますが、これは、定期給与が1%増加した時に、1%中の0.2%、すなわち2割が消費に回るという意味ではないことに留意する必要があります。

ライフサイクル・モデルと中高年層の賃金水準の低下

 職能給制度の下では、年齢・勤続を重ねるとともに職務遂行能力が高まると想定されていたので、賃金カーブは右肩上がりとなっていました。しかしながら1990年代後半以降、成果主義賃金制度が導入され、たとえば「役割給」といった仕組みが導入されました。「役割」は必ずしも年齢・勤続とともに高まるわけではないので、中高年になると昇級・昇格できる者の数が大幅に絞り込まれ、多くの者の賃金が一定水準に留め置かれることになり、その結果として、中高年層の平均賃金水準が低下することになりました。
 厚生労働省「賃金構造基本統計調査」において中高年層の直入者の所定内賃金の推移を見てみると、1995年に比べて2022年には、高卒・大卒とも40代前半が4万円程度、40代後半が7万円程度、50代前半では高卒が約10万円、大卒が約8万円減少しています。

 近年の人手不足の影響もあり、初任給をはじめとする若年層の賃金水準が引き上げられていますが、若年層で賃金を引き上げても、中高年層の賃金カーブを引き下げれば、賃金水準が全体として引き上がることにはなりません。また、消費水準が生涯所得の見通しに依存するというライフサイクル・モデルに従えば、中高年層の賃金カーブ引き下げは、平均消費性向の高い中高年層の消費抑制につながるだけでなく、若年層の消費抑制を招くことにもなります。現在の若年層が将来、中高年層になった時に、子どもの養育費を賄う賃金が得られないのではないかという将来不安があれば、若年層のころから消費を抑制せざるをえません。若年層の将来不安が、モチベーションの低下、社外流出につながることも懸念されます。「今の若者は、長期雇用を前提としていない」ということがよく言われますが、中高年層の賃金水準が低いために、長期にわたって勤続することが不可能な賃金カーブになっていないかどうか、よく検討する必要があります。

 5年ごとに実施されている総務省統計局「全国家計構造調査(2014年までは全国消費実態調査)」により、2009年から2019年にかけての平均消費性向の変化を世帯主の年齢層別に見ると、全年齢平均で12.4%ポイント低下しているのに対し、世帯主が35歳未満の若年層では15.2%ポイントも低下しています。実収入に占める定期収入の割合は、全年齢平均よりも35歳未満のほうが低下幅が若干小さくなっているので、若年層における平均消費性向の低下は、中高年層における賃金抑制を見据えた将来不安を反映しているものと思われます。また、未婚の子どもの数が多いほど、平均消費性向の低下幅が大きいという状況も見られます。

 内閣府の『平成29年版経済財政白書』でも、
賃金カーブのフラット化が進む局面では、若年層は生涯所得を低く見積もるため、結婚や出産といった将来のライフイベントや老後に備えて貯蓄する動機が強まる。さらに、若年層が、終身雇用を前提とせず、将来離職する蓋然性を高く見積もっている場合、予想生涯所得に対する不確実性が高くなり、予備的貯蓄動機から現在の支出を抑えようとする。
と指摘しています。

 実際、2022年の内閣府「国民生活に関する世論調査」において、「日常生活での悩みや不安」の内容を年齢層別に見ると、20代後半~40代前半では、「今後の収入や資産の見通し」が他の項目を大きく引き離して1位となっています。この設問では、別に「老後の生活設計」という選択肢が用意されていますので、この世代における「今後」が「老後」でないことは明らかです。
 また、「将来に備えるか、毎日の生活を充実させて楽しむか」という設問に対しては、中学生までの子どものいる親において、「貯蓄や投資など将来に備える」がとくに多い状況が見られます。

職務給とエンゲージメント

 岸田内閣の「三位一体の労働市場改革」では、ジョブ型=職務給の導入が「中核」とされています。しかしながら、その目的は「年功賃金制などの戦後に形成された雇用システム」の変革ですから、もしこれが実際に行われれば、中高年層の平均賃金水準がさらに低下することは避けられません。
 「三位一体の労働市場改革」は、「欧米は職務給、日本は年功賃金制」という思い込みの下で考えられているようですが、そもそも、国際的に比較して、若年層と比較した中高年層の賃金水準が、わが国では特別に高いという傾向は見られません。

 また、米国企業では、従来の職務給を中心とする賃金制度・人事制度において
*詳細に定義された職務のあり方が、一方では従業員の柔軟な働き方や能力開発を制約し、他方では環境変化に対する組織の適応能力を制約している。
*職責が明確に規定されることで、従業員には担当する職務範囲を超えて柔軟に業務を遂行し、それを通じて能力を開発する機会が制約される。
*環境変化が著しく新しい業務が絶えず発生する状況下では、常に新たな職務の設計や既存の職務記述書の見直しを行わなければならない。このことは、環境変化の程度に比例して職務を改廃するコストが高まることを意味している。
といったことから、「組織のフラット化と共に職務設計の柔軟性を高め、それにもとづく従業員の柔軟な働き方と能力開発を促し、ひいてはそれを評価・処遇する職場の管理者たちの裁量性を高める」ために「脱職務主義」、「職能給」化が進んでいると指摘されています。(石田光男・樋口純平(2009年)『人事制度の日米比較』ミネルヴァ書房)

 わが国におけるエンゲージメント(従業員の仕事や職場への関与と熱意)の低さが、クローズアップされています。ギャラップ社の調査によると、エンゲージしている従業員の割合(2022年)は、グローバル平均で23%、OECD加盟国平均で20%となっているのに対し、日本では5%にすぎません。
 米国の主要な調査機関であるADPリサーチ・インスティテュートが2018年に19カ国、19,346人の勤労者に対して行ったエンゲージメントに関する調査では、
エンゲージメントと生産性において個人差が生じる最も強力な要素は、回答者が「業務の大部分をチームで行っている」と回答したかどうかである。職場での生の体験、つまりは一緒に仕事をする同僚と、同僚とのやり取りが何物にも勝る力を持っている。
*自分がチームの一員であるという感覚を抱くのには、企業文化に同調する必要もなければ、特殊な研修コースや能力開発プログラムに参加する必要もない。チームのリーダーやメンバーの姿が毎日見られるか、彼らが話しかけてくれるか、身を乗り出してサポートしてくれるかどうか、などにかかっている。
*チームとは、組織図上に記載されている指揮命令系統では説明できないものである。業績はたいてい、組織図で記載されたボックスの外、実際の職場で機動的かつ偶発的、短期的に動く非公式で流動的なチームで発生している。
という分析が行われています。(マーカス・バッキンガム、アシュリー・グッドール「組織図には表れないチームの力が従業員エンゲージメントを高める」『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』2019年11月号)
 エンゲージメントを高めるという観点からしても、職務給が適切であるとは考えられません。

 たとえ「年齢が高いだけで高い処遇を得ている社員」(内閣官房新しい資本主義実現本部事務局)がいるとしても、現時点で「高い処遇を得ている社員」には、本来、高いポテンシャルがあるはずです。いまや人手不足が恒常化し、将来的にも生産年齢人口の減少が続く中で、高いポテンシャルがあるはずの従業員の賃金を引き下げて、社内で腐らせたり、社外へ追い出したりする余裕はないはずです。高いポテンシャルを発揮させて、「高い処遇」に見合った実績を求めるのが、企業として当然の人材活用だと思います。

 人材活用のスタイルは、産業によって、そして企業によって当然異なるわけですが、エンゲージメントを高め、従業員の能力形成・能力発揮を促進し、大変革に柔軟に対応していくという観点から、賃金制度・人事制度を再構築していく必要があります。


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