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生活日記16

お腹が痛い。
今日一日ずっとお腹が痛かった。朝腹の痛みで目覚めた。
ずっと痛い。鎮痛剤も効かない。
前回病院に行ったら、行った途端治ってしまったので、今回は病院に行かず部屋でうんうん唸っている・・・・・・

のも飽きたので、こうして日記を書いている。
痛みを紛らわす為に日記を書くのは何度目だろうか。
最近は抑うつ気味なので、あまり小説は読めていない。
ネッフリで少しドラマを観たぐらい。『ロシアン・ドール』が面白かった。

母は「身体が丈夫な人はそうじゃない人の気持ちが分からないから」と、私がこのように苦しんでいる事にも意味があると言う。本当にそうだろうか。
確かに、想像力には限界が無いようで実は知らず知らず自分で制約をかけている事があり、実際に経験しないと分からない苦しみがある。私も最近初めてギックリ腰になり、「こんなに動けないものか」と驚いた。確かに経験は想像力を拡げる。
でも身体が丈夫だったら良かった、そっちの方が良かった、と、身体の何処かが劇烈に痛くなる度にふと思ってしまう。身体が丈夫で人の痛みに鈍感な人って凄く幸せな人じゃないか??と思う。周囲の人には恨まれているかもしれないが、それも本人には分からないかもしれない。
『ミスター・ガラス』は最後に「私が生まれてきた事には意味があった」とガラスのように脆いぼろぼろの身体を抱えて言った。それを劇場で観た私は、私の苦しみにもおそらく意味があると思って泣いた。しかし、劇場を出て冷えた頭で考えてみたら、私には他の大勢の人と同じように意味が無いように思えた。この痛みは、苦しみは、私だけのものだ。身体が丈夫な人の一部にはきっとどんなに訴えても伝わらない。貧困が見えにくいように、障害も見えにくい。私が職場で笑声で電話対応をすれば「なんだ元気じゃないか!」と思われる。限りなく健常者に近付こうとして努力している部分は、見えない。私はいないも同然だ。

こんな風にぐるぐる考えているのは、うつモードの証拠。
そろそろ別の事を考えたいところ。でも暗い考えは止まらない。
いないも同然の私だが、声を出さない事には始まらない。苦しいぞ怒っているぞ悲しいぞ痛いぞ絶望しているぞ喜んでいるぞ、全てを切り出して、外に出していきたいと思っている。色んな形で。
しかし、体力には限りがある。悲しい事に限りがある。
限りがあるが、私のような人間は私だけではない、という事は分かっている。きっと大丈夫だ。私だけではない。度々透明にされてしまう私のような人間はきっと私だけではない。
声は日々増えていく。きっと増えていく。大丈夫だ。
「私だけの痛み」を抱えた人間は、私だけではないから、私が途中でへばっても、他の人が続けてくれるだろう。

大丈夫だ、大丈夫だ、と外に中々出せない表現物を頭の中に抱えながらうんうん唸る。頭の中の物語を全て外に出せたらなんと幸せな事だろう。
でもそれは叶わない。百分の一でも出せたら幸運だ。
諦めと疲れと混沌の脳内で、私だけの物語はどんどん進んでいく。
きっと大丈夫だ。私だけではないから。と自分を励まし続ける。
オリジナリティは過去の様々な表現物の影響から枝分かれて生まれていく。私が描けなくなってもきっと枝分かれた隣の住人がきっと私の痛みを紡いでくれるはず・・・・・・多分・・・・・・

それでもやはり自分で描きたい。そう思って毎日机に向かう。
腹は痛い。腰は痛い。背中は痛い。首は痛い。手は震える。
これが死ぬまで続くのか。いっそ、全てをやめてしまいたい。
でもやめられない。恩師は「創作をしないで生きていけるのならそっちの方が良かった」と言った。私もそう思う。
そう思うけど、今日も机に向かう。

想像力には限界があるのか?この痛みは本当に伝わらないのか?
ああ、悲しい悲しい。そう思いながら今日も続けていく。
腹が痛い。暗い事ばかり考える。涙が出て鼻水をすする。

いつか本当に伝わる事を祈っている。
ただただ祈っている。


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