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弁当があることの安心感は毎日の戦いから生まれているという考察

前回のnote、読んで頂き、ありがとうございます。ゼミの先生でもある有賀さんにもコメント頂きとても嬉しかったです。「弁当が出来た達成感」、感じる人とそうでない人がいるということはとても大きな気づきでした。

そして今回、このnoteに関してこんなコメントをTwitterで頂きました。

「私がお弁当でいいと思うのは「(お昼に)食べるものが確保できている安心感」です。」

やばいまた血管切れそうなくらい頷いてしまった。そう、私は安心感を得たいから弁当を自分のために作る。なぜなら不安で不安で仕方がないから。

人生常に不安だらけ、まるで戦地に赴くように。

なんでこんなに不安なんだろうっていうくらい、毎日不安です。外国暮らし、特にマレーシアに転居しての1年めは本当に、辛かった。その頃から私は「自宅弁当」を家庭料理に取り入れるようになりました。

理由は毎日生活基盤を整えることで、日々神経すり減らしていたから。毎日不安で仕方がなかった。だから「何か自分で用意していないと食事が面倒になってしまう。」だから自分で事前に用意した。というわけです。だって、私が倒れるわけにはいかないから。

これは思いの外うまく機能しました。自分一人の時、家族の時それぞれ準備しましたがそれぞれ満足度が高かったです。そして今回、このコメントをもらって気づきました。

私は「食べれる」という安心感が欲しかったんだ。

お弁当作りの効率化は家庭料理の不安解消へ繋がる

家庭料理に関して製作者に常につきまとうのは「不安」ではないでしょうか。おいしくできるのだろうか?食べてもらえるだろうか?という不安。だから、私は様々な作業を行い不安を解消します。

おいしくできるかどうか「不安だから」作り方を情報収集する。

材料があるかどうか「不安だから」材料を事前に用意する。

おいしくできるかどうか「不安だから」正確に測る。

無駄遣いしたら「不安だから」家にあるもので作る。

疲れて片付けが嫌になったら「不安だから」弁当箱の中に盛り付ける。

目分流では、行き当たりバッタリでは不安だから私たちは料理の時様々な作業をします。お弁当を効率よく作るための「作り置き」も弁当が効率よく時間内にできるための不安解消のに役立ちます。

箇条書きにしたことで、私が弁当を作る過程で家庭料理の不安が解消されていったのが自分でもよくわかりました。noteありがとう。

家庭料理のラスボス不安に弁当なら立ち向かえる

しかし、家庭料理には最後の最後にラスボスの不安が待ち構えています。

「ちゃんと食べれる(食べてもらえる)時間があるのだろうか。」

特にここは東南アジア。時間通りの行動なんて出来たらラッキーな場所です。でも、ここで食事が弁当形式になってたらこの不安はかなり解消されるです。

場所がなかったら弁当を持って移動する

時間がなかったら途中でやめる

弁当は(家で冷蔵庫に入れておけば)夜中までなら基本いつ食べ始めてもいい

これだけでかなり気持ちが楽になりませんか?私は、なります。

家庭料理に「家弁当」を取り入れる幸せ

私は周囲にも、息子の友人にも「コミュ障」認定されるような変わり者で毎日生活するという行為にドキドキしているのが現状です。(これは日本語でも英語でも一緒)。だから、毎日不安で不安で仕方がないのです。コミュ障って笑うがいいさ。でも、家の外ではほぼ外国語、そして自分の知らないシステムの中での生活ってやっぱり日々緊張するんですよ。

明日、いや、1時間、いや10分先にどんな困難が待ち受けてるかわからない。いつ戦いモードになるのかわからない。だから、戦うための食料を用意せねば。

だから私は自分のために弁当を作るっているような気がしてきました。

もしかして、家庭料理に不安がない人って(家族がいてもいなくても)自分の生活環境に不安がないってことなのではないでしょうか。それならそれも素敵やんって私は思うのですが、いかがでしょうか。