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月繭

 それは新月の夜にだけ、来る。
 さらさらと砂の崩れるようなかすかな音がして、くもった目を凝らせば、窓わきに据えた書棚の上、天井との隙間に挟まるようにして、それは膝をかかえて座っている。

「マユ」

 さらさらと、砂のすべり落ちるみたいな音がする。

「返事をしないか」

「はあい」

 それはゆっくりとこちらを向いて、まるで血の気のない、月でも削って作ったみたいな顔で、薄く笑った。「なあに」と続ける。絶えず、砂のこぼれる音がする。

「なぜそのようなところに座る。降りてこい。ここへ」

 すなおに従って、するりと書棚から降りる所作には、重さがすこしもない。煙のように崩れながら、マユは私のひざのうえに腰を下ろした。そして私のやせこけた胴に腕をまわす。沈丁花のようなまろい香りがうっすらと漂う。これが言うには、月にはこういう香りが漂っているのだという。ならばこれは、月から来たいきものなのだろうか。月から、いったいどうやって降りてきたというのだろうか。毎度考えてはみるものの、私の胴に腕をからめて抱きしめながら見上げるその顔がかわいらしくて、いつもどうでもよくなってしまう。これが新月のたびに現れるようになって、もう六十年になる。

「マユ、かわいいな、お前は」

「そう? にんげんのほうが、かわいいよ」

 弱くて、すぐ泣くし、すぐ死んでしまうところとか。しばらく来なかったら、もう前に会ったにんげんは、いないところとか、たくさんいるけど、同じのはいないところとか、お花みたいで、かわいい。
 死んでしまうのがかわいいとは、なかなかいい趣味をしているな、と思う。

「死ぬのも弱いことも不愉快なことで、」

 私は、マユの頭に顔をうずめ、背中に手を這わせながら言う。重くもぬくくもない体が、老いて筋張った手のひらにしっくりと馴染んだ。

「醜悪なものだ」

 そしてマユと目を合わせれば、とろけるような漆黒の目が愉快そうに細められる。そんなに、こわい? マユは顔に二つの三日月を並べて、ほんの少し首を傾げた。そして、「死ぬことと、弱いことは、にんげんにとって、そんなにも怖いことなんだねえ」と言った。私は、その猫ほどの小さな体をかいなに抱いて外へ出る。空から照らすもののない夜は、見下ろされる恐怖もなく、いささか開放的だ。

 マユは、きっと圧倒的に高位のいきものだ。

 マユを初めて見たとき、手に入れようと思った。あまりにも美しくて、これこそが理想の美だと思った。攫おうと抱きすくめたら、マユはさらさらと砂にこぼれて、そして後ろから「そんなに急がなくても、いなくならないよ」と言ったのだ。新月だった。誰もいなくて、月も星もなくて、ただそこにぽっかり浮かぶマユの白い顔が、とにもかくにも美しい。何年経っても変わらず、美しい。

「変わらないものが美しいものなのだ」

 おまえのように。腕に抱きかかえたまま私がそういうと、マユは可笑しそうに笑う。けらけらと、竹筒に小石を入れて転がしたような、まるで子どもをあやす玩具のような声。もしや、あやされているのは私なのだろうか。

「まだ、百周も生きていないから、そういうふうに思うだけだよ」

「百年だろうが、千年だろうが、新月のたびにまえが来るのなら、憧れがやむはずもない。おまえのようになりたいという憧れが、やむはずもない」

 新月のたび、変わらないものの美しさを見せつけにくるマユがいるのに、その不変を惜しげもなく見せつけてくるいきものがあるのに、変わらないものに憧れを募らせないわけにもいくまい。そう言ったら、またきっとこの美しいいきものはころころと笑うのだろう。
 マユの笑い声のかわりに、さらさらと砂の落ちる音が上のほうから聞こえてくる。見上げれば、濃藍の空のはるか上、とうてい見えないような深いところから、ひとすじ細く砂のこぼれ続けるのが見えた。たどっていけば、それはマユの頭のてっぺんにつながっている。糸で繋がれたかいこの繭みたいに、マユは白くまるくやわい。そうこうするうちに、マユは次第に小さくなる。

「じゃあ、またね」

 最後にこぶしほどの大きさになったと思ったら、マユは、しゅうとほどけて、空に落ちていった。私はまた、次の新月までマユを待つ。


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