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【ムルディカ】

※ ムルディカとはインドネシア語で独立の事です

2/3~8まで

ミラ姉さん・Drハミルトンに誘われて

毎年行っている
「丸尾さん研修会」へ行って来ました。

丸さんはバリ島に住んでるので

片道8時間の長旅です。

飛行機は
11:00出発予定

出発まで時間が無いので
オタオタしてしまいました。

飛行機の中では

日頃観る事の出来ない映画を
この時とばかりに


沢山ダウンロードして置きました。

見た映画は

・杉原千畝
・壬生義士伝
・禅

の三本

心を洗濯して
インドネシア入りしました

いつも
Lcc が多いのですが
今回は
「ガルーダ・インドネシア航空」

客室乗務員さんが外人で
スタイルが良すぎです。

いつも1人で行動してますが
やはり
仲間と一緒に居るのは楽しいです。

(バリのカッパ!)

※ Dr ハミルトンは仕事を独立していない為、モザイクです。イケメンなのに勿体ないです。

バリに着いたら
もう暗い時間でした。

空港から丸さん家へは
車で4時間

途中
食事を取ったり
コンビニ寄ったり

遊びながらの前進です。

10年前

初めてバリに来た時は

コンビニが少く
しかも、品揃えが悪く
地元の雑貨屋の「トコ」の方がマトモに感じました。

※「トコ」とは、昔から有るインドネシアの小さな個人商店のお店の事です。

今や
コンビニが沢山あり、トコよりも安くて安心です。

(24時過ぎに到着)

丸尾兄貴は
こんな時間に着いても

「おー よー来た よー来た」

「久しぶりやなー」
「最近どないや⁉️」


大歓迎してくれます。

本当に
世の中の常識を遥かに超えてます。

もっと凄いのは
兄貴のグループ会社で雇っている人数

雇用者数を聞くと

「大体2000名位やな~」

と答えます。

バリは日本と違って
家族の人数が多いです。

一家族5~10人で住んでるのが当たり前

単純に
10000人以上を養ってる事に成ります。

大旦那です。

丸さんの言葉には
「愛」しか詰まってません。

・「相手を否定してはダメ
もし
相手をボロカスに言うならば
最後まで
トコトン面倒を見なければ成らない」

・「仕事も
誰か他の人の仕事を潰してしまうような仕事をしたらダメ

周りを【全て生かす】仕事をしなければ伸びない」

(バリで節分)

どんな質問をしても
全てが「愛」で返って来ます。

下心なんて
1つも在りません。

丸さん邸に
三日間お邪魔したのですが

3日目から
急激に食欲が失くなり

眠くてたまりません。

その内

間接が痛く成って来ました。

風邪を引きました。

そうだった
僕は冷房が苦手でした。

(熱発の為、起きてるのがやっと)

自衛隊退職後の生活は

・「眠たく成るまで寝ない」
・「起きたくなるまで起きない」
・「食べたく成るまで食べない」

バリに来たら

・「眠たく成るまで寝ない」

の1つだけに成ってしまいました

「起きたくなるまで起きない」は

就寝3時間後に
ヴィラの現地係の方が

毎朝
ドアを叩いて起こしに来ます

そして
「ショクジスルゥカ⁉️」
「ナニニスルゥカ⁉️」

巻舌口調で聞いて来ます。

そして
何か質問すると

「チョトマテチョトマテ」


と答えるのが面白いです。

僕は

6時間は寝ないと
スッキリしない体です。

食事も
日頃、朝ごはんは食べません

1日、1~2食です。
1食の事が多いです。

それが
バリ島では三倍量を取りはじめました。

そして
クーラー。

僕は
どんなに暑くても
クーラーを付けません。

しっかりと
クーラーの無い部屋を頼んでいたのですが

それでも
身体が冷えてしまい

風邪を引いてしまいました。

(竹槍と38式歩兵銃)

この場所は

古戦場です。

バリ島での

インドネシア独立戦争
最後の戦闘の場所

この場所で

インドネシア軍は
オランダ軍に追い詰められ、玉砕・全滅した場所です。

このインドネシア軍

独立部隊には
大東亜戦争に敗れた日本の兵隊が
多数、インドネシア独立戦争に参加しています。

理由は
アジアの解放
アジアの独立

それが
大東亜戦争の目的で有った為
と言われてます。

インドネシア全土で
参加した日本兵は数千人とも言われてますが

兵隊の中には

既に日本名を棄て
現地の名前を名乗っていた人も多かったそうです。

てすので
未だに正確な参加人数・戦死者数は不明です。

そしてこの
このマルガーラナ英雄墓地

(整列)

インドネシア兵と共に戦った
日本兵が11名

バリの方々に
大事に大切に
バリの方々によって手厚く葬られてます。

兵隊の眠る場所へ
必ずお供えする物は

・煙草
・水

です。

本当は
日の丸も持って行きたかったのですが
国旗は管理が大変で

他の荷物と一緒に取り扱え無い為
国旗の携行は断念しました。

しかし

・水
・タバコ

これだけは
必ずお供えします。

理由は

兵隊は止まりません
いつも喉が渇いています。

喉の渇きが収まる事もありません。

戦場で一番困るのが水です。

ですので
水だけは必ず持って行きます。

煙草

当時の成人男性たちで、煙草を吸わない人は殆ど居ないと言っても過言ではありません。

この当時の方々の一番の嗜好品は
煙草でした。

そして

煙草さえ有れば

喉の渇きも
空腹も
我慢が出来る

それと

煙草は戦闘中では吸えません

戦闘前か戦闘後にしか吸えません。

もう
戦争は終わってます

ゆっくり一服させてあげたいです。

そんなお供え物をして

(みんなのうた)

ここで戦った

日本兵の為に
・国家 君が代


インドネシア兵の為に
・故郷


オランダ兵の為に
・故郷の空

3人で唄を奉納しました。

「故郷の空」は
スコットランド民謡と言うことで

オランダの歌では有りませんが
有名な曲なので

オランダ兵が知らない訳が無いと思い
選曲しました。

お供え物をして回ったり
歌を奉納したり

そんな事をすると
重々しい空気かと言うと

全く違います。

当然
敬意は払っていますが

先輩たちのお陰様で
現在のような楽しい世の中が出来ました

感謝感謝の
笑顔で話しかけながらの参拝です。

外は雨

(やっぱりまだ食べられない・・・)

海外で戦没者の慰霊を行うと
必ず雨が降って来ます。

何故だか
わからないけれど

必ず降ります。

そして

皆で楽しく夕食をとろうとお店に入りました。

しかし

またしても食欲が無い

クーラーのせいなのか

体が怠い・・・

皆には悪いけれど

1人で先に車に戻る事にしました。

車に戻って

仕入れたアロマの香りを確認したり

荷物を整理したり
そんな事をしていたら

クーラーが無いせいか
体調が戻って来ました。

因みに
「アロマ」とは
インドネシア語で「香り」の事

当初の目標として
「バタフライピー」の精油を仕入れる予定でしたが、バタフライピーは見当たらず

その代わり

・ナイトクイーン
・プルメリア

購入しました。

(香りで選んだ二品)

効能は
まだ良く分かりません

調べます。

お肌に良ければ

これで
リップクリームを作って見ようと思います。

(鋸南の海)

日本に帰国して

ぐっすり睡眠をとりました。

その日

友達から電話が来て
「夢からのメッセージ」は必ず繋がるから、しっかりと覚えておけ!!

と言われました。

そこで
忘れる前に書き残して置きます。

令和2年2月10日朝

洪水か何かの災害でした。

仲間と共に川で救助活動中でした。

特に昔からの仲間である「S井」とその家族が被災して、僕は救助をしてました。

自分の救命胴衣も
必要な人へどんどん渡して

水の中から
次々と被災者を余裕寂々で
バンバン抜き上げてました。

そんな時
S井が
「おい、こいつ大丈夫か!?」


水の中から人を引き上げようとしてました。

僕は
「大丈夫か、手伝うぞ‼️」


言いましたが

S井は
「おい森山、大丈夫か!!」

って
叫んでました。

「おいおい、何言ってる⁉️」


言っても
誰も振り向かず

S井の回りに人が集まります。

(誰だろ⁉️大丈夫かなぁ・・・)
と思いつつも

此方はこっちで
手が放せません。

S井がまた叫けびます

「おい森山」

S 井の嫁さんと子供が泣いてます。

(あれっ、俺か⁉️)

(あらら
もしかして俺は死んじまったのか)

僕は
作業を止めて

しばらく
S井と「要救助者」を眺めてました。

(確かにアノ場所で俺は足を川底に取られた場所だなぁ・・・)

(俺はそれで死んじまったのか)

(成る程な~
これが死ぬって事か)

(その程度で死ぬのかい!?
本当に体って弱いよな~)

って
感心していたら

明るく成って目が覚めました。

「あっ
やっぱり生きてた」

まぁ

どっちにしろ
一生懸命、人の為に生きてる

そうで在るならば

生きていようが
死んでいようが

構わないな。

でも
体を粗末にするなよって言うメッセージだと感じました。

そんな

ヘンテコな夢でした。

(夢の有る写真)

(2/9発射H2ロケットin 種子島)

次は
これを見に行こう!

今日見て来た物件

海近すぎ物件


なかなか良かったです。

次は交渉だ!!

次に住む家なんて


もはや
僕が考える事ではない

天が勝手にかんがえろ!!

いくぞ

鋸南でGo!

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