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梅と空と日本刀

青々とした空に、幾重にも積み重なる巨大な雲が浮かんでいる。夏のあの雲は山々の向こう側から湧き出ているようだ。
純白の雲は広大な表面積を有し、壮大な姿はいつまでも見ていられる。その潔白な表面とは裏腹に、胸の奥がストンと突き抜けるような不安がよぎった。ひとたびあの雲が降りて来れば、黒く、激しく、けたたましい様相に変貌するであろう。
特に夏の空にはあからさまな美しさとともに、相反するものが内在されているようだ。

医王山の麓に位置する大学のキャンパスは小高い丘の上にあり、元気な蝉の鳴き声は山の脇を走る浅野川に響く。
金沢は7月、すっかり夏だ。

大学1年生の和貴が住む学生寮は丘の麓に位置し、そこから住宅街と畑道を突っ切っる通学路を登ると大学のキャンパスが見える。
キャンパスまでは歩いて15分くらいだったが、どっと汗が噴き出していた。

教養科目の授業の講堂に入るとすでに学生たちが疎らに座っておしゃべりをしていた。

和貴は必ずといっていいほど、前列の教壇に近い席に座る。予備校時代からのクセのようなものだ。
授業は教員のライブであると感じている。
高校時代の退屈で何の役に立つのかもわらからない授業には、全く関心がなかった。目的が見つからないまま高校の3年間を送り、1年の浪人生活を送った。
地元の予備校に通ったが、そこでの授業は様々な講師達の個性があふれていた。
「なぜそうなるのか?」をたっぷりと時間を使って説明してくれる先生、雑談がとにかく面白い先生、勢い勝負な先生、激しく絶叫する先生など、とにかくインパクトをつけて学生に覚えさせようという意図がはっきりしている。
和貴が特に好きだったのは化学の授業だった。化学の寺田先生は、高校時代とにかく暗記勝負だと思い込んでいた化学の理論をわかりやすく説明してくれた。寺田先生の授業が楽しみだった。
それが、和貴が化学系の学部を進学先に決めた、一つの理由である。


よく効いた冷房で体を冷やしながら待っていると、いつもツルんでいる友人、ニックネームは「ベイビー」が隣に座った。

「よお。」
「よお。今日は何の講義だっけ?」
「今日は歴史博物館の長谷川先生が来るんだって。」
「ふーん、そうかぁ。」

この、「金沢の文化」という授業は1年生時の教養科目であり、理科系の学生にとっては単位さえとれればいいという消化試合のようなものであった。
周りの生徒たちも特に興味はない様子で、友人同士で談笑している。
このベイビーも、本来はその中の一人であっただろう。
和貴と仲のいいベイビーは、和貴に伴って前列の席に座るようになった。

間もなく講師の先生が教室へ入ってきて、授業が始まった。いつもと様子が違って、荷物が多いようだ。細長いものを持って教室へ入ってきた。
「今日のテーマは『日本刀』です。」

教室内に、特別な反応はない。後ろの方で、ヒソヒソと雑談をしている生徒さえいる。

「あの細長いものは日本刀だったのか。」和貴は胸の中で鼓動が高鳴るのを感じていた。
授業は、まずは知識を得るところから始まる。なかなか本命ご開陳とならないのが、この手の講師の特徴なのだ。
刀剣コレクターでもあるらしい長谷川先生の話は長い。
刀身は抜かずに刀の柄やら、鞘やら、飾りやらの話を続けていて、大抵の生徒は飽きている。
和貴は興味深く話を聞いている。隣にいるベイビーはすでに飽きていてペンを回しながら聞いていた。
話を聞いていると先生はおもむろに、脇に置かれた木の鞘に収められている日本刀に手をかけた。

「さあ、いよいよご開陳か。」

ついに、江戸時代の作という刀身が、木の鞘から抜き取られた。
まるで鏡だ。キラキラと煌めきながら、怪しい妖気を放っている。
「・・・何という美しさだろう。そしてこの、身体に感じる冷感は・・・。」
長谷川先生は、木の柄を持ちながら、油を含んだ布で刀を磨いている。

刀は、その美しい品質を保つためにも手入れが欠かせないという。油を含んだ布で刀身を磨き、油鞘と呼ばれる木の鞘で保管するという。そして時々、研ぎをかける。
切れ味抜群の日本刀ではあるが、何人か人を切った刀は人間の骨の堅さによって刃こぼれを起こしてしまうそうだ。日本刀とは、それほど精巧な代物である。

長谷川先生は以前、布で磨く作業中に誤って切っ先に親指を立ててしまい、親指が真っ二つに裂かれてしまったそうだ。
すぐに大学病院で裂かれた指の接合を受けたそうだが、その時に執刀したのが脳神経外科の医師であったという。
幸い神経をぴったりと結合し直し、指は元通りの感覚を取り戻したらしい。
冷や汗とともに、日本刀の抜群の切れ味を物語るエピソードだ。

教壇の上で、妖気を放ちながら磨かれる日本刀を持ちながら、長谷川先生はゆっくりと饒舌に話を進める。
一振りで大根だろうが腕だろうが、スッパリと落とせてしまいそうな容姿である。
先生が何かに取り憑かれているように見えてしまう。

ヒソヒソ話しをしている生徒も、気がついたら静かになっていた。
教室は、和貴を含め興味津々で食い付く生徒と、恐れなのか無関心なのかわからないが感心の無さそうな生徒に二分されているようだった。

刀は木の鞘から外され、実際の柄と鞘がついた姿となった。
これでよく見る姿の完成だ。
古来から日本刀は美術品としての性質を帯びていたが、江戸約260年間の戦のない時代を経てその極みに達した。江戸城内では揉め事で刀を抜いただけで、その本人と相手までもが切腹の沙汰を下されていたという。たまったものではない。
纏われる刀身含め全体が極度の美術品、そして武士の嗜好品となっていたのだ。


「持ってみたい人いますか。前へ来てください。」
先生の一声に一同、様子を窺っているようだが、和貴は迷わず前へ出た。その後をベイビーがついて行く。ぞろぞろと何人かの生徒も前へ出た。後ろで、全く関心がない様子で椅子に座りっぱなしの生徒もいる。

和貴は一番乗りで、最初に日本刀を手渡された。
ずしっと重い重厚感があり、しっかりとした筋がぴーんと通っている質感。実際の重み以上に感じる。そして何より、刀身から発せられる威圧感が尋常ではない。

力を入れていないはずの右手が、無意識に力んでいる。
「ああ、あの時の感覚だ。」
脳からの軽い命令発信が、何十倍にもなって抹消へ伝わっていく。


「陸上競技、100m走のスタートライン」。
中学生の頃から陸上部に所属する和貴は、何度もスタートラインに立っている。
ウォーミングアップの時から、放課後の練習とは異なる「軽い身体」。
力を入れていないはずなのに弾む身体を抑えるという感覚は珍しい。しかし、抑えることを理解していないと身体は想像以上にバテてしまう。
ウォーミングアップを終えて一度静めたはずの心の臓は高鳴り、身体は準備万全に整っている。
身体は脳からのシグナルをまだかまだかと待っていて、感覚は最高潮に研ぎ澄まされている。そのシグナルの予兆にさえ、身体は敏感に反応してしまうのだ。
まるで全身の神経の連携が頭に浮かぶような、普段味わえない感覚を覚える。


「これは・・・。」
日本刀を持った瞬間、感じた。まずい代物だ。
和貴は己の暴発を思い描いた。ごく先の未来を想像させる力をこの刀は持っていた。

簡単に肉と骨を裂くことができる。横に振れば胴体と腕が離れ、縦に振れば脳漿を浴びたであろう。
傷口こそ美しいのだ。
完全なるものが不完全となるときの愉快さ。
完全なるものの中に不完全なるものが存在する愛らしさ。
美しさと共存する醜さは際立つ。
対立をいとも簡単に共存させてしまう美の極みが、そこに存在した。

人間の本性をあらわにしてしまう力強さを秘めていて、外見はキリリと美しい容姿なのだ。
なんと魅力的であり、恐ろしいことか。
数々の覇者が時代を超えて、日本刀の魅力に狂喜乱舞してきたのであろう。

和貴はそっと、先生へ日本刀を手渡した。
手がじっとりと汗ばんでいる。少しの感、肩から手にかけての力みが残っている。

次の生徒へ、日本刀が手渡されていく。また次の生徒へと、どんどん手渡され、先生の手元へ戻った。

和貴は、やっと自分の周りが見えるようになっていた。しばらく、自らの意識の中に引き込まれてるようだった。
周囲は多少のざわめきや、日本刀を持った生徒の浮き立った顔などが見える。先生の講義が再開されている。

席に戻り、和貴の耳にもやっと先生の声が届き始めていた。

夏の日の冷房が効いた教室の中で、まだ熱い背中を伝う一筋の汗はヒヤリとした感覚を伝えた。

空では入道雲がゆっくりと、巨体を地表へ沈め始めていた。

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