高円寺酔生夢死 第07回

人はなぜ酒を飲むのか?単純に酔っぱらうのが良いのだ、という人もいるだろうが、更に進んで、出来ない事が出来てしまうから、というのもあるだろう。彼氏彼女に思いを伝えるのに酒の力を使ったり、説教する時についつい一杯飲みつつ、なんていうのは、飲み屋でよく見られる光景である。説教に付き合わされる部下には迷惑な話だが、普段は人を叱る事が出来ない人がよく使う手だ。それが切っ掛けで「怒り方」を覚えてよい上司になる場合もあるし、勿論その逆もある。説教ではなくてただの愚痴になってしまう人は、元々相手を叱りたいのではなく、日頃の自身の不運さを嘆く事が出来ないでいる場合が多い。

普段の我々は、自分なりの範囲を定めて行動する。それは決して数値的なものではなく、「こんな事をしてはいけないんじゃないか」「こんな事を考えてはいけないんじゃないか」という心情的なリミッターと言ってもいい。人は、激情からではなく、自身がイメージする「平穏さ」に基づいて行動しているのだ。しかし、酒はその「平穏さ」をいささか激情寄りへとシフトさせる。してはいけないと思っていた事も「まぁ、いいんじゃないか」とふと思い立たせてしまう。それが大胆さの理由であり、周囲の人間への理不尽さの源泉である。明らかに普段の彼、彼女とは異なる行動や言動を取る目の前の人物に対し、既知の人々はとまどう。そんなとまどう周囲を見るにつけ、大胆な彼や彼女は大抵の場合、愉快な気分になる。普段、そこはかとなく気を遣っている人ほど、酔った自分が周りを振り回している事がだんだん楽しくなってくるようだ。まぁ、この辺はあくまでサトウの観察であったり、当の本人の告白だったりするので全てにおいてそうであるとは言い切れないが、酒癖が悪い、と言われる人の「切っ掛け」は大体、この振り回す快感に由来している。

普段の生活でも似たような事例を時折見かける。例えば、会議や普段の会話で突拍子もないことを言って周りを煙に巻く人がいるだろう。常人とは異なる思考回路を働かせ、発想そのものがユニークな人も確かにいる。しかし中には、明らかに受け狙い、自分の発言に周囲が戸惑っている様子を見て喜んでいる人間も多い。言わば愉快犯的な行動であり、酔っていないだけに始末が悪い。問題は、それが自分のアイデンティティであり、「我、かくあるべき」と何が何でもヘンなことを言ってやろうと躍起になっている場合。こういう人に「真面目にやれ」と言ってはいけない。その人にとっての真面目とは、より周りを混乱させる事なのだ。この時、不思議なことに彼、彼女は周りが自身を受け入れてくれている、或いは自分の味方ばかりだ、と思い込んでいる事だ。これは酔いに任せて周りに面倒を掛けている人と大して違いがない。

飲みの場に話を戻す。普段と異なるノリでにぎやかな彼、愉快な言動でにこやかな彼女。一緒に飲んでいる仲間も「酒を飲ませるとアイツ面白いな」みたいな感じで楽しそうに見守る…確かにこの時点では、周囲は彼を彼女を受け入れている。味方である。そのままで終われば「ああ、楽しかったね」で終わるのだが、問題はその周囲の優しさを過信してしまった場合。

「何を言ってもみんなは喜んでくれる」「私が楽しい時はみんなも楽しい」

どうやらそんな感じでエスカレートした挙げ句に総スカンを食らいハブられる。そんな光景を幾つも見てきた。どうしたらいいのかと問われても「程々に」としか言いようがない。ホントに気をつけよう、自戒を込めて。

(2010年8月2日公開分)

読んで下さってありがとうございます。現在オリジナル新作の脚本をちょうど書いている最中なのでまた何か記事をアップするかもしれません。よろしく!(サポートも)