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アウシュビッツで考える|果たして自分は大丈夫か

ユダヤ人であるだけで、約110万人が拘束・殺害される。

なんでそんな悲劇が生まれたのかを考えたくて、ずっと行きたいと思い、ついに叶いました。

感じたことをつらつら書いていきます。

アウシュビッツの展示で最も印象に残ったのは、囚人1人1人のポートフォリオ。

顔写真の下には、名前や生年月日、職業などが記載。多くはボーダーの囚人服を着ていた。女性は髪を切られ、坊主だった。

おぞましかった。

うまく言えないけれど、たとえば怒り、憎しみ、恨み、悲しみ、絶望、希望。それらが人によって混ざっているようで。

人にさせては絶対にいけない表情だと思った。


他に印象に残っているエピソードは、アウシュビッツ収容所の柵の隣にある、一軒家について。そこは当時のドイツ人の収容所所長が、子どもや妻と共に暮らしていたそう。

それを聞いて、所長はよく家族が持てたなと思った。残虐に別の家族の殺人を執行していく隣で。

でもその所長は、家族を愛する、正気なドイツ人に過ぎなかったそう。自分の家族を守るために、任務を果たしていると。

ドイツは近代において、科学やら芸術やらの超先進国だったはず。比較的豊かな国の人々が、どうしてこうなったんだろうと。

(以下、インプットと自分の考えが混ざっていきます)


ドイツは第一次世界大戦の敗戦国として、過酷なペナルティが課されていく。豊かさから貧しさへと転落し、不安や絶望が広がっている。

心理の話だが、人や集団は、自分ではどうしようもないストレスを抱えた時、他責にすることで解消しようとする傾向があるとする。

また人は自分を肯定するためのアイデンティティが必要。たとえば家族の存在や仕事のやりがい、自己実現、集団への所属を拠りどころにする。

だけど拠りどころが出来ないと、究極的に、自分の国籍が拠りどころになる。自分たちは超先進国のドイツ人であると。そこからゼノフォビア(外国人排斥)が生まれてくる。

一方でユダヤ人は少数だが、経済的なエリート層が多い。よって恨みのターゲットになりやすい。

そこに生育歴の「ゆがんだ」ヒトラーが、うまい言論で「希望」を見せる。当時の多数のドイツ人にとって、それが道しるべになったんだと思う。


上記のケースは、20世紀の事例でいうと、ユダヤ人の大虐殺に限らない。
たとえば旧ユーゴスラビアの内戦や、ルワンダの内戦など。昨日まで隣人だった人たちが、民族の違いから殺し合いをしている。

現在だって、たとえばトランプ大統領が外国人を排斥する傾向があるし、ヨーロッパでも難民の受け入れを拒む傾向が出てきている。

日本だって最近は、ナショナリズムが台頭しているような気がする。ヘイトスピーチや反韓も含めて。

というか学校や職場等の「いじめ」だって共通かもしれない。抱えたストレスを他者へと向けることで、安心感やら集団の団結感を得ているんじゃないか。

もし、日本でも、これから大きな社会問題が生まれ、国が貧しくなり、人々が希望を見出せなくなったときに。憔悴したときに。

現れた道しるべに対して、客観的に判断を下せるだろうか。
周囲の意見にまどわされず、自分の考えを持てるだろうか。

その状況にならないと分からないし、絶対に大丈夫なんて言えない。
でも今回、この思考をひと回りしたことは、ちょっとは大丈夫に近づいたとしたい。



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