マガジンのカバー画像

"歴史" 系 note まとめ

1,136
運営しているクリエイター

#コラム

【2024年版】世界史教科書 消えた用語、増えた用語:山川出版社・帝国書院の比較編

この記事の要約この記事は長い(約40000字)のではじめに要約を書いておきます。 以前、山川出版社の新しい世界史教科書の用語がどのように変化したのか記事を書いたことがあった。しかし、必ずしも単純に「増えた」「減った」と言えないのではないかという事実がみえてきた。 そこで今回は帝国書院の世界史探究教科書の収録語と、山川の収録語を比較することで、山川が収録しなかった用語とは何かをあぶり出してみることとした。 これによって、世界史の教科書にも多様な編集方針があり、その背後には

【ニッポンの世界史】#31 学習参考書と世界史:なぜ世界史は「暗記地獄」化したのか?

 これまで私たちは、「ニッポンの世界史」は、アカデミズムや学習指導要領のような“公式”世界史と、それらと対抗関係にある“非公式” 世界史の綱引きによって形成されてきた経緯をみてきました。  “公式”の語りを、“非公式”の語りが突き崩すといっても、両者の間に厚い壁があったわけではありません。  ときに、ひとりの書き手が、両者を行ったり来たりすることもみられました。  歴史学者の土井正興(1924〜1993)がそれにあたります。 土井正興: スパルタクスの研究者から教科書執

【ニッポンの世界史】#30 文化圏の罠:世界史に「アフリカ」は入っているか?

周縁の不在  1970年代の社会科教育に関する雑誌をみてみると、「好きな国」を聞くアンケートをとってみたり、何も見ずに地図を書かせてみたりして、「生徒たちの関心がヨーロッパにばかり向いている」という嘆き節が、よく掲載されています。  この地図くらい描ければ十分とも思えるのですが、たとえば職業系の高校において同じようなことをやらせてみても、全然描けない。  世界史の授業中に顔をあげさせるだけでも難しい。  そういった嘆きも聞かれるようになります。  国外に眼を向ければ、世界

【ニッポンの世界史】#28 それぞれの「近代」批判:吉本隆明・阿部謹也・謝世輝

謝世輝のヨーロッパ中心主義批判  さて、今回は謝の世界史構想の全容に迫っていきます。  謝の構想を一言でいえば、「これまでの世界史はヨーロッパ中心主義的で、まちがっている」ということに尽きます。  たとえば、1974年の時点では次のように主張しています(謝世輝「世界史の構築のために」『歴史教育研究』57、1974、70-71頁)。  箇条書きににしながら、その特徴をあぶりだしてゆくことにします。 1.世界史にとって重要なのはアジア(東洋)だ  文明圏(文化圏)にわけて

【ニッポンの世界史】#27 忘れられた世界史家・謝世輝(しゃせいき)とは何者か?—万博・ヘドロ・ポストモダン

3つの不信  アジア初の国際博覧会であった大阪万博は、1970年3月15日から9月13日までの183日間開催され、国内外から116のパビリオンが参加しました。総入場者数約6421万人は、当時として史上最高の記録でした。  グランドテーマは「人類の進歩と調和」。共存が難しい「進歩」と「調和」を掲げ、人類の高い理想を追求するものでしたが、戦後日本の歴史は、1970年を境にとして、大きな転換点を迎えることとなります。  図式的に書けば、次のようになるかもしれません。  ① 西

【ニッポンの世界史】#24 世界史にとって、1970年代の「大衆歴史ブーム」とは何か?

1970年代の大衆歴史ブームの担い手は誰か?  まずは前回のふりかえりから。  1970年に高校の学習指導要領が改訂され、世界史A・Bが世界史に一本化されるとともに、「文化圏」学習がはじまったのでした。  改訂された新学習指導要領が実施されたのは1973年からのこと。  これに基づくカリキュラムと教科書により教育を受けることになったのは、1957年より後に生まれた高校生たちです。  1957年生まれは「ポスト団塊世代」ともいわれ、ギリギリ東京五輪の記憶があって、多感な時代

【ニッポンの世界史】#23 「国益」のための世界史へ:なぜイスラム世界は「文化圏」に格上げされたのか?

格上げされた「イスラム世界」  1970年度学習指導要領では「イスラム世界」が、ヨーロッパ文化圏、中国の文化圏とともに、単独で世界の「三大文化圏」のひとつに数えられるようになりました。  この「格上げ」の背景にあるのは、やはり戦後の研究の進展により参照できる情報が増えたということが大きいでしょう。  もともと西洋生まれの「世界史」において、イスラムの扱いは貧弱で、その傾向は、西洋的世界史の影響を強く受けた発足当初の世界史も同様でした。  そこでは、西洋文明が まるで”主

【ニッポンの世界史】#22 「文化圏」学習の導入:1970年度学習指導要領の思惑

1970年代の世界史へ   学生運動の激化と挫折で幕を閉じた1960年代。ここからはさらに歩みを1970年代にすすめ、"公式" 世界史たる学習指導要領の改訂と、それに対する多様な "非公式" 世界史の動きをおさえながら、「ニッポンの世界史」がどのように再定義されていくかを追っていきましょう。 貧困の時代から選抜の時代へ  高度成長は、日本社会を大きく変えました。  1960年に6割を切っていた高校進学率が1970年代に9割を達成。  熾烈をきわめる「受験戦争」勝ち抜き少

【ニッポンの世界史】#21 反戦と世界史の60年代:映画の映した世界とサブカルチャーとしての漫画

ベトナム戦争の衝撃  日本が高度経済成長を驀進していた1960年代。  しかしちょっと視線を国外に向けてみれば、依然として世界のあちこちでは冷戦構造が緊張をもたらしていました。  1962年にはキューバ危機が勃発し、世界が冷や汗をかかされたと思ったら、その後しばし和解ムードとなりますが、63年にはケネディ大統領が暗殺。これに代わったジョンソン大統領は65年から北ベトナムの空爆(北爆)を開始し、のべ50万人の地上軍を投入することとなるベトナム戦争の火蓋が切って落とされます。

【ニッポンの世界史】#19 「戦前」やアジアと向き合う世界史は可能か? : ロストウ・ライシャワー・竹内好

高度経済成長と近代化論  安保闘争が岸信介の退陣により急速に沈静化すると、政治の季節は経済の季節へとうつりかわります。GNPやら経済成長率やら、経済学者しか使わなかった用語が、国民の人口に膾炙するようになっていく。  「いざなぎ景気」や「三種の神器」といういずれも皇室と関連する言葉を用いたネーミングが、経済成長を象徴することばとして流行したことは、日本人の自信回復のあらわれでもありました。  思い起こせば、1945(昭和20)年に戦争が終わり、「間違っていた」とみなされるよ

【ニッポンの世界史】第18回:1960年代の新動向—「明治百年」・反戦・『岩波講座世界歴史』

昭和元禄と明治百年:政治から経済へ  学習指導要領が告示された1960年は、日米安保をめぐる闘争が、条約の締結と岸信介内閣の退陣という幕引きをみた年でもありました。  岸を引き継いだ池田内閣は、防衛費をおさえつつ経済成長に力を入れ、ここから「政治」の時代は「経済」の時代に様変わりします。1964年には東京オリンピックが開催され、国民の生活水準も全体として着実に上向いて行きました。「豊かさ」がそこかしこにひろがり、1968年には「昭和元禄」という言葉も聞かれるようになりました

【ニッポンの世界史】第17回:受験戦争が変えた「教養」—1960年代の進学校と予備校

分離ありきで進められた世界史A・Bへの改訂  1960年度告示学習指導要領でA科目とB科目に分けられた世界史。いずれにしても以前に比べて標準単位数が減らされることとなりました。  この背景には前回みたように、企業の求める質の高い就職者を確保するため、実業課程向きのざっくりとした世界史が求められた事情があります  学習指導要領づくりに携わった教材等調査委員会の明石委員は次のように発言しています。  明石と同様のことは、木村茂夫も発言しています。実際にそのような成り行きで改

【ニッポンの世界史】第16回:授業時間が足りない?—就職者にとっての世界史

A科目とB科目に分かれるまでの世界史の変遷  1960年度指導要領で就職者向けのA科目と進学者向けのB科目に分かれた世界史。A科目は週3時間、B科目は週4時間が標準とされました。  前回の1956年度学習指導要領では、社会科に「社会、日本史、世界史、人文地理」が設置され、このうち高等学校の社会科は日本史、世界史、人文地理から2科目は必ず履修することになっていました。  しかし1960年度指導要領では、社会科として「倫理・社会、政治・経済、日本史、世界史A、世界史B、地理

【ニッポンの世界史】第15回:世界史の分裂!—1960年代の学校世界史と働く青年の教養主義

世界史Aと世界史B:1960年度学習指導要領改訂  「歴史ブーム」が巻き起こる中で、学習指導要領が改訂され、世界史は「世界史A」と「世界史B」の2つの科目に分けられることが決められました。  「世界史A」とか「世界史B」という科目名は、1990年代以降に高校時代を送った年代の人であれば、大学受験の科目として世界史を使わなかった人であっても、聞いたことがあろうかと思いますが、実は1960年度改訂以降の約10年の間にも、「世界史A」とか「世界史B」という科目が設置されたことがあ