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#読書

#41 『本屋』と『本業』

2024年3月某日 息つく暇もない年度末、体調などを崩さないように乗り切りたいものである。忙しない状況だと、趣味である読書の時間が減ってしまい、本の手触りが恋しくなる。 … さて、全国的に書店が減少していることは周知の事実であるが、その背景にある要因としては「出版不況」が挙げられることが多い。すなわち、「紙の本が売れないから、その小売店も厳しい」という単純な話である。一方、本が読まれていないかと言われるとそうではない。実際、ビジネス賢者のみなさんは揃って読書習慣の重要性

叱られる

 やはり、知ったかぶりはするものではない。  こちらはテキトーに口にしたつもりでも、相手がその内容を確固たる知識として吸収する可能性がある。そしてそういう知識は、また別の人に話されることによって広まっていく。出発点にはあった「テキトー」という要素を抜きにして。 *  先日、かつて家庭教師で担当していた学生さんと会う機会があったのだが、会って早々「これ見て、先生」と叱られてしまう。  叱られの原因は、それこそ「知ったかぶり」である。  見せられたのは、加賀野井秀一の『感情的

【ニッポンの世界史】#32 少女漫画がひろげた世界史の担い手:『ベルサイユのばら』を中心に

 はじめに結論から。  少女漫画『ベルサイユのばら』が、世界史をコンテンツとして楽しむことのできる広汎な読み手を育て、歴史の関わり手を男性だけでなく女性にひろげる役割を果たした。  今回ここで述べるのは、たったそれだけです。 *** 歴史を物語として楽しむカルチャー  歴史を物語として楽しむ行為自体には、口伝えの伝承や軍記物語など、それこそ長い長い歴史があるわけですが、日本ではとりわけ近世以降、商業的な出版や演劇、講談を主要なメディアとして、たとえば『三国志演義』の二

【ニッポンの世界史】#20 戦後の「世界史全集」ブームのゆくえ

出版ジャーナリズムが世界史をダメにした?  これまでたびたび紹介してきた歴史学者上原専禄は、1950年〜60年代までの世界史に関連する出版物の変遷について、次のように評しています。  この1969年に書かれた論考で上原がここで批評の対象としているのは、古代から現代までをカバーする「世界史全集」のことです。  全集といえば、「世界文学全集」や「百科事典」が刊行されるようになるのは、戦前の大正時代からのこと。新潮社の『世界文学全集』(全57巻、1927〜32年)は1冊1円の

國分功一郎『近代政治哲学』(ちくま新書)を読んで

 こんにちは。柚子瀬です。  先日、國分功一郎さんの『近代政治哲学』(ちくま新書)を読み終えたので、その感想を書いていこうと思います。今年はX(ツイッター)に簡単な感想──伝えられる情報量が限られているのでもはや読書報告といえるかもしれない──を投稿するだけでなくて、なるたけnoteにきちんとした感想を投稿していけたらいいなと考えています。  まず、なぜ本書を読もうと思ったかというと、第一に國分さんの作品だからというのが大きいですね。内容の如何にかかわらず、これまで読んだ

「実験の民主主義 トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ」~不確実な時代における"プラグマティズム"と"編集"の可能性~

本の表紙を見ると、「宇野重規著」「聞き手 若林恵」と記載されている。これは罠だ。読み終わった後にそう思った。 どう考えても、若林恵は"聞き手"の定義を大きく超えている。後半はむしろ宇野重規よりも話している量が多いのだから。 しかし、ここにこそ、本書の独自性と魅力がある。 はじめに基本的な情報を確認しておくと、東京大学社会科学研究所の教授を務める宇野重規の話を、個人的にも大好きな編集者である若林恵が聞き手として行われた、計20時間にも及ぶ対話から生成されたのが本書である。 副

精霊たちが出迎える

*以下は「週刊朝日」のコーナー「最後の読書」に寄稿した文章。人生最後 に本なんて手にするだろうか、と考えながら書き始めた文章で、ディケンズの『クリスマスキャロル』を扱いました。 ・・・ 人生が終わろうとするときに本なんて手にしないだろう。私にとって本は自分を慰めるためのものではなく、自分を変化させながらなんとかこの世でやりくりするためにあるものだから、死ぬ前に読む動機なんて見当たらないだろう。 しかし、日常の中で過去の読書を反芻することを私は繰り返している。日々十代の子

ヒトの言葉 機械の言葉:「人工知能と話す」以前の言語学/川添愛【読書ノート】

「言葉」……それは私たちが日常の中で、何気なく、そして瞬時に扱う魔法のようなもの。我々人間にとって、この魔法の使い方は自然で、子どもの頃から身についている能力のように思える。 そんな私たちが、この魔法を機械に教えることは容易だろうと信じていた。だが、この魔法の背後には複雑なルールや知識が隠されていることに、この冒険の手引きとも言える本を開くと気づかされる。 この本の中では、言葉の背後に隠された秘密や、文法の緻密な構造、さらには私たちが持つ意図の奥深さを、冒険家のように探求し

温もり

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本屋は無駄を売っている

なぜ、人は余計な本を買っちゃったって嬉そうに話すのか?日経新聞の記事によると、アメリカでリアル書店復活の兆しがあるんだとか。ちょっと、嬉しいニュースです。リアル書店の価値は「買うつもりのなかった本を買ってしまうこと」。本屋に入った時は買うつもりのなかった本を、レジに並んでいるときに手にしているって経験、みなさんにもありますよね。 人はいろんな欲望を持つけれども、不器用だからその欲望を自分で言語化することができない生き物です。そして自分の欲望は、自分で気づくより、他人に教えら

岡本太郎の原稿がよみがえる新刊『誰だって芸術家』制作の裏側!

(以下、本書より) 芸術はマニアの占有物ではないし、スノッブの教養でもない。ビジネスの商材でもなければ、金庫に溜め込む資産でもない。芸術とはあくまで民衆(ピープル)のものであり、無償無条件でエネルギーを放射し続ける太陽のようなものであって、日々のくらしのなかに生きるものだ。 そう考える岡本太郎は、膨大な作品群を制作する傍らで、数多くの著作を社会に送り出しました。芸術論、文化論、人生論、社会論……、ジャンルはさまざまなれど、想定読者はあくまで市井の人々。だからいずれも平易な

忘れられた思想家|畑中章宏さんが選ぶ「絶版本」

 だれしもが若かりし日の読者体験のなかにおいて、読む、読まないにかかわらず持っておかないといけない本がある。つまり、その本を買って、本棚に並べておくことが、自分が関心を持つ領域に参加している証だとみなされるからだ。そうした本のなかには、そんな当時の“雰囲気”が忘れ去られてしまい、何年か経つとまさに「絶版本」の栄誉(?)を受けるものがある。  1962年生まれの私は、高校生から大学生の頃、つまり1970年代の終わりから80年代にかけて、広い意味での「思想」にかぶれて、さまざまな

旅とブンガク|太宰治に呼ばれて東京・三鷹と青森・津軽へ

これを「呼ばれた」と言わずしてなんというのだろう。 2022年、それぞれ別の目的で行ったところがたまたま、太宰治ゆかりの場所だった。太宰治が晩年長く暮らした町・三鷹と、太宰治が生まれた土地・津軽。 太宰治に影響されたイタすぎる中高生時代文学好きあるあるだと思うのだが、10代の頃は太宰の作品にけっこう影響を受けていた。国語の授業中に教科書じゃなくて、こっそり太宰の小説を読むのがかっこいいと思っていたイタすぎる中高生時代。読書感想文ではじめて県で表彰されたのも太宰治の『斜陽』

新書が1冊できるまで ③:書籍の「顔」をどうするか?

こんにちは、光文社新書編集部の江口です。先日、来年4月に弊社入社予定のみなさんとお会いする機会がありました。ちょうど1年前には、私も「内定者」としてひとつ上の先輩方のお話を聞いた覚えがあるのですが、それにしても時が経つのは早いですね。もう「新人」ではいられないわけなので、あらためて気を引き締めなければ……と焦っている今日この頃です。 さて、この「新書が1冊できるまで」も3回目の更新です。「原稿整理編」「入稿&校正編」につづき、今回はついに「完成&発売編」になります!……と予