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【図解】ゼロからはじめる世界史のまとめ⑱ 1815年~1848年の世界

イギリスではじまった新たな「エネルギーの生み出し方」(注:産業革命)のインパクトが急速に広がるのがこの時代。
今回は、日本でいう「江戸時代の終盤」の世界を眺めていきましょう。


産業革命の影響が世界に広まっていく時代①

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「変わる世の中」vs「あの頃よもう一度」


前回見たように、イギリスで始まった爆発的エネルギーを生み出す「新技術」のもたらしたインパクト(注:産業革命)は急速に世界に広がり、着実に世の中のしくみは変わりはじめていた。

 世界各地で、イギリスのペースに合わせて適応しようとする人たち、イギリスに追いつこうとがんばる人たち、そもそもそんなこと意に介さない人たちが、さまざまな反応を見せることになる。

 利害関係は人によって地域や立場によってさまざま。

 ヨーロッパでは当初、時代の変化にあらがい、「あの頃よもう一度」と昔ながらの社会のしくみを維持しようとする国家間の動きが活発化した(注:ウィーン体制)が、結局は「新しい時代に合わせた価値を求める動き」に勝つことはできなかった。


大陸を超えた人々の移動もますます活発になっていますね。

―風の力で動いていた船は蒸気船に代わり,馬やラクダは鉄道に代わっていった。

 イギリスの生んだ新技術は、従来の動力と比べ物にならないパワーを発揮するからね。

 これによって最も打撃を食らったのは、長い間「人類最強」を誇っていた、ユーラシア大陸の遊牧民たちだ。
 ラクダや馬にのせるより(注:駄獣交通)、蒸気船に大量に荷物を載せて運んだほうがもうかるわけなので、陸のルートはますます廃れていったんだ。
 沿岸地帯の良い港にはさまざまな国の人が集まるようになり、取引が盛んになっていく。

 イギリスをはじめとするヨーロッパの国々やアメリカ合衆国との取引を拒否する国々の中には、武力によって攻撃されてむりやり国をこじ開けられる例も出ているよ。


強引ですね。アジアの国々は弱かったんですか?

―アジアの国々の王様の力が弱っていたのは確かだけど、民間の商人たちの活動は盛んだよ。
 それにアジアにはたくさんの人口がいる。資源や機械設備などをふんだんに投入する方向に向かった西ヨーロッパとは異なり、限られた土地にたくさんの人手を投入する方向で産業が発展していった(注:勤勉革命)。

 ヨーロッパはオセアニアへの進出も進め、例えばイギリスはニュージーランドオーストラリアへの進出を進めている。対抗するようにフランスも島々(注:タヒチ)を確保しようとしているよ。
 アフリカでも沿岸地帯を中心に、貿易ルートをむりやり確保しようとする動きも始まっている。

◆1815年~1848年のアメリカ

アメリカ合衆国が歩む「ヨーロッパとは別の道」


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生まれたばかりのアメリカ合衆国は、どんな感じですか?


―イギリスとの「最後の戦争」(注:アメリカ=イギリス戦争)を経て、政治は一時期に落ち着いているよ。

 ただ、先住民である「インディアンたちの戦い」(注:チェロキー族)は続いているし、ヨーロッパ諸国(たとえばロシア)がふたたび北アメリカにやってこないとも限らない。

 アメリカの大統領はヨーロッパに対して「ぼくたちはヨーロッパには手出ししない。だから、ヨーロッパのみなさんもアメリカには口出ししないでほしい」と呼びかけている(注:モンロー主義)。



どうしてそんなことを呼びかけたんですか?

―ほら、中央アメリカや南アメリカには、スペインやポルトガルの植民地があったよね。

 これらの植民地がこの時期にいっせいに独立していったんだ地図)。
 ペルー、ボリビア、コロンビア、ベネズエラ、アルゼンチン、チリ…。どれも聞いたことのある名前だよね。


聞いたことはあるけど、アメリカ合衆国ほどはよく知りません。

―日本はアメリカ合衆国との関係が深いから、ついついアメリカ合衆国のことばかり取り上げがちなんだけど、アメリカ生まれの白人(注:クリオーリョ)が指導して、植民地の親玉(ヨーロッパ諸国)から独立するっていう構図は、アメリカ合衆国も南米諸国もまったく変わらない。


なるほど。でも南米諸国はどうして独立することになったんでしょうか?

彼らは広大な土地を持つ支配階層だったけど、スペインやポルトガル本国からああしろこうしろと口出しされるのがウザくなっていたんだ。ヨーロッパの「自由」を大切にする考え方の影響も受けている。

 支配層が白人なので、新しい国づくりにあたって先住民や黒人の意見が反映されていくとは限らなかった。


この時期にできた国だったんですね。意外と新しい…。

―だよね。

 ヨーロッパの国々からすると、これらエリアを失うのは「もったいない」話だ。だってこの地域ではやいろんな農産物、化学肥料の原料(注:グアノ)がとれるからね。

 そこでヨーロッパの王様や貴族は、中央アメリカや南アメリカでの独立運動をジャマしようとした。

 できたばかりのアメリカ合衆国は、ヨーロッパ諸国に「ジャマするな。アメリカは俺たちのショバだ」と牽制(注:モンロー教書)。


 でも結局これらの地域で商売を始めようとしていったのはイギリスだ。さすがのアメリカも、イギリスの軍事力を前にしては口ごたえもできない。
 その裏でアメリカも、その後も虎視眈々(こしたんたん)とこの地域への進出を狙い続けていくよ。



◆1815年~1848年のオセアニア

南の島に英仏が武器とキリスト教を持ち込む

―この時期のオセアニアには、イギリスとフランスの進出が進むね。

 フランスは東のほうにあるタヒチ地図)を支配下に置き、イギリスはニュージーランドをたくみな策略で植民地にしているよ(注:ワイタンギ条約)。

 現地の人どうしの争いも利用した巧妙な作戦だった。



◆1815年~1848年の中央ユーラシア

ユーラシア大陸を舞台にしたグレートゲームが展開


―ユーラシア大陸の内陸には、この時期にますます西からはロシアロシアの拡大の地図)、東から中国の進出が進んでいく。

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ロシアが西から東に進んでいけば、イギリスが嫌がるでしょうね。

―そうだね。イギリスが大事にしている植民地インド(注:インド帝国)があるからね。

   この時期にはロシアのタタール人やアルメニア人の商人が、中央ユーラシアに積極的な進出。貿易は盛り上がりを見せていた。

    イギリスがインド側から中央ユーラシアに進出して来ると、このロシアと中央ユーラシアを結ぶビジネスにとっても厄介だ。


当時の中央ユーラシアにはどんな国がありましたか?

—ユーラシア大陸の真ん中付近には、かつての草原地帯の覇者であるモンゴル人の血を受け継ぐ王様たちが、イスラーム教を保護して栄えている(注:ウズベク人の3か国)。

けれども、これらの国がロシアや中国、そしてイギリスの「領土取り合いゲーム」に巻き込まれていくのは、もはや時間の問題だ。



◆1815年~1848年のアジア

「自由貿易」を主張するイギリスが勢力を拡大する

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―この時代、まだまだ中国南部は貿易がめちゃめちゃ盛んだった

 しかし中国の皇帝が許せなかったのは、イギリスとつながる商人が港にアヘンという薬物を売りつけに来ること。


そりゃそうですね。なぜイギリスの商人はそんなことをしたのですか?

―本当は中国各地で貿易をしたかったんだけれど、中国では貿易が認められていたのは中国南部の広州(地図)というところだけだったんだ。
 しかも、許可された商人グループとしか取引ができない。
 イギリスが売りたくてしかたのない、工場で生産された綿布も自由に売れない。

 でも中国には魅力的な商品がたくさんあるから、どうしても赤字になってしまう。

 そこで、インドで生産したアヘンを売りつける作戦に出ていたんだ。


中国は禁止しなかったんですか?

特別大臣(注:林則徐)の命令により、港にあったアヘンの箱を燃やさせたんあだ。
 そうしたらイギリスの商人は激怒。大問題だということで、イギリスの議会で議論された結果、結局中国と自由に貿易をするために戦争をしよう!ということになってしまう。


「自由に貿易したいから戦争」って…すごいですね。

―反対した人はいたんだけど、強行突破された。

 で、結果的に大敗した中国は、巨額の賠償を支払う責任を負わされ、さらにシャンハイなど自由に貿易のできる港を開かされた。このときに香港(ホンコン)という島も、イギリスに取られている。


破竹の勢いですね...。

―イギリスは南アフリカのケープ植民地を我が物とし、さらにインド洋の島々にも拠点をつくった。
 後で説明するようにシンガポールをとったのもこの時期だ。

 ゆくゆくは地中海からエジプトの運河(この時期にはまだ建設されていない)を通り、紅海~インド洋を抜けてアジアにいたる「エンパイアルート」の建設を夢見ることになるよ。


 さて、これを見てビビったのが日本だ


 「おいおい、中国ってその程度だったのかよ! っていうかイギリスやべえ」と。
 こりゃまずいということで、日本は大砲製造と沿岸警備に乗り出すことになる。外国情報を取り入れた先進的な技術開発(注:反射炉)に向けて、地方の若手武士が活躍しているよ。



◇1815年~1848年のアジア  東南アジア

―この時期の東南アジアでも、ヨーロッパの国々による植民地支配が強まっている。


「植民地」…ってことは、人が移り住むってことですか?昔のギリシャのように。

―基本的にはそうなんだけど、この時代で「植民地」っていうと、物をつくるための原材料をゲットするための場所という役割が大きいね。

 それに、完成した工業製品を売りつける場所でもある。

 イギリスはインドを最重要の植民地として位置づけているから、それを守るためにならなんでもした。
 インドからアヘンを中国に運んで貿易赤字を埋めようとしていたから、そのルートの「中間地点」にあるマレー半島はとっても重要だ。
 現在のマレーシアのあたりの港町(注:シンガポール)を植民地として組み込んでいるよ。


どうしてこんなところを?

―ほら、インド洋と東シナ海の結び目にあたるところでしょ。

 ここを拠点にインドと中国を股にかけることで、ユーラシア大陸を東西に結ぶ物流の大動脈を握ろうとしたんだね。


ライバルのフランスはどうですか?

―建国するときに援助したベトナムの王様(注:阮福暎(げんふくえい))に「言うことを聞け」と、恩を仇(あだ)で返そうとしているよ。ベトナムの皇帝もだんだんフランスのことがウザくなってきている頃だ。

 フランスも中国でビジネスをしたかったので、イギリスが中国との戦争(注:アヘン戦争)で勝ったタイミングで、ほぼ同じ内容の不平等な条約を中国と結んでいるよ。

 代わって、スペインの力はどんどん下がっているね。太平洋を横断する貿易(注:アカプルコ貿易)もこの時代には幕を閉じている。植民地しているフィリピンでは、スペインよりも中国人商人の活動が活発になっているよ。

 最後にオランダ。
 オランダは現在のインドネシアの支配を強めていて、お金を稼ぐために住民たちに強制的にコーヒーなどのもうかる作物を栽培させている(注:強制栽培制度)。
 お米の栽培よりもコーヒーの栽培を優先させたことで住民に影響も出るけど、この時代には畑の面積が広がり、結果的に人口は増えていったんだ。


◇1815年~1848年のアジア  南アジア

―インドにはイギリスの露骨な侵略がすすんでいる。
 北部のシク教徒の王国や、中央部(注:デカン高原)のヒンドゥー教徒の王国(注:マラーター同盟)を戦争で破り、住民たちにお金になる作物を栽培させている。その代表例がアヘンという薬物だ。


インドはイギリスが直接支配していたんですか?

―ううん、イギリスが直接おこなっていたわけではない。
 「東インド会社」という「国公認の会社」に担当させたんだ。
 税を取る仕事までおこなっていたわけだし、この時代には貿易部門が廃止されるから、「貿易ビジネス」から「支配代行ビジネス」がメインとななっていったわけだ。

 で、住民たちを支配する各地の王様たちはそのまま残した。住民の不満が直接イギリスに向かわないようにしたためだね。

 でも人々の不満はじわじわとたまり、やがて爆発することになるよ。


◇1815年~1848年のアジア  西アジア


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―西アジアではオスマン帝国がますますピンチだ。
 北からのロシアの進出が激化し支配地域のエジプトも事実上独立してしまった(注:ムハンマド=アリー朝)。

 しかも海からは、イギリスはアラビア半島の北側のペルシア湾沿いの国々を、次々にコントロール下に置いている(注:休戦オマーン)。これが現在のカタールとかオマーンとかアラブ首長国連邦などのちっちゃい国々のルーツとなる(地図)。

 慌てた皇帝は急いで改革を始めるけど、はっきりいって「見掛けだおし」の改革(注:タンジマート)に終わってしまった。
 憲法をつくるなど国のしくみそのものにかかわる改革には手は出せなかったからだ。


こんな調子だとますますヨーロッパ諸国につけこまれますね。

―だよね。
 ヨーロッパ諸国はオスマン帝国の中にいるいろんなグループに、「お前たちは○○人だ。○○教徒だ。さっさと独立したほうがいい」(注:ナショナリズム)とアドバイスする。
 もともと、国レベルの確固たる意識なんてこれっぽっちもなかったのに、だ。


オスマン帝国はゆる~く支配をしていたんですもんね。

―そうそう。
 でも、この時代には支配地域にあったギリシア地図)がヨーロッパ諸国の支援で独立してしまうし、エジプトもコントロール不能になってしまった。
 ヨーロッパ諸国は独立運動を助けるフリして、恩を売りたいだけだったんだ。「助けてやったんだから、領土や港をよこせ」って良いたいがための行動だ。

 オスマン帝国側も、このようなバラバラの状況に対して、なんとかしなければという思いから、オスマン帝国はオスマン人の国だ!っていきなり言いはじめるんだ。
 民族も宗教もいろいろだけど、みんな平等のオスマン人だ、っていうわけだ。
 でも、いきなりそんなこと言われても響かないよね。
 オスマン人って誰だよ
 統一された教育制度があるわけでもないし。

 状況はますます悪化していくことになるよ。


強い国をつくりたいんだったら、「○○人」しかいない国を作ればいいっていう考え方。これってヨーロッパの考えの影響ですかね。

―そうそう。
 「○○人」という共通の意識を「設定」した国を作ることで、強い国をつくろうという考え方はこの時代のヨーロッパで流行している。

 でも、これを実現しようとすると、かなり強引に進めなきゃいけない部分も出てくるよね。
 単純に「○○人」しか存在しない地域なんて、地球上どこ探してもないわけで

 狭いヨーロッパでさえ大変なんだから、オスマン帝国でそれをやろうったって、そりゃあ難しいわけだ。



◆1815年~1848年のアフリカ

ヨーロッパ諸国の進出はまだ沿岸が中心

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―東アフリカでは、アラビア半島のオマーンが進出して奴隷貿易がブームになっている。
 

 南アフリカはイギリスの植民地となり土地を追われたオランダ人(注:アフリカーナー(ブール人))らは北へと逃げていった。一方、バントゥー系の民族どうしの争いも激化している。


貿易が盛んになったことも関係しているんでしょうか。

―それもあるだろうね。
 西アフリカでは以前からイスラーム教を旗印に遊牧民と定住民が協力した国づくりがすすめられているけど、沿岸では相変わらず奴隷貿易が続いている。

 アメリカ合衆国はこの時期に「かわいそうな黒人をアフリカにかえしてあげよう」という運動が置きて、「自由な国」という意味のリベリアっていう国を建国させてあげた。でも、縁もゆかりもない人が国を建てたことで、もともと住んでいた民族との対立が人工的に生まれることになってしまった。


北アフリカではオスマン帝国の支配地域が狭くなっていますね。

―そうだね。
 エジプトはオスマン帝国と戦って、事実上の独立を勝ち取った(注:ムハンマド=アリー朝)。南のスーダンまでも支配下におさめているよ。

 また、フランスは地中海を挟んで反対側のアルジェリアを植民地化している。国内の不満をそらすために王様(注:シャルル10世)がやったんだ。

 現代のフランスにアルジェリアなどのベルベル系の人が多いのは、このとき以降の進出がルーツなんだよ。



◆1815年~1848年のヨーロッパ

「昔の秩序」に戻そうとする動きへの反発が盛んに

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フランスの軍人皇帝が大暴れして「いろいろあったヨーロッパ」ですが、どうなっていますか?
―思い返せば混乱のきっかけは、一般人たちが政治に参加したことだ。

 「やつらを政治に参加させたら、ロクなことがない」

 これがヨーロッパの王族、貴族たちの「共通認識」だ。

 秩序のためにはヨーロッパを、皇帝・王様・貴族の体制に戻そう

 この「昔に戻す」体制(注:ウィーン体制)の中心になったのが、まさにヨーロッパの中心にあったオーストリアの皇帝とその宰相(さいしょう)だ。
 オーストリアはかつては神聖ローマ帝国という、由緒正しい国のトップだった。しかしそれがフランスの軍人皇帝に滅ぼされ、今度はヨーロッパの「復興」の中心に立つことで「栄光」を取り戻そうとしたんだ。


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―でも、すでに産業革命を進めていたイギリスは、ヨーロッパの旧体制復活にあんまり乗り気ではない。

 もちろん、もう「革命」はゴメンだけど、自由な経済を否定するような動きに反対する勢力も増えている。


この時期にアジアに領土を広げているロシアはどんな反応をしているんですか?

― 一方、オーストリアと陸続きの国ロシアの皇帝は、オーストリアが「リーダーを気取る」ことにいらだちを隠せない。

 でも、ロシアは経済的にはイギリスにはとうてい追いつける状態ではない。まずは領土を広げ、農業のできる土地と凍らない港を確保することが先決だった。
 そこでジャマになるのがオーストリアだ。


皇帝と王様のヨーロッパに戻すっていっても、なんだか団結力はなさそうですね。

―その通り。
 時代は「身分がすべて」な時代から、「実力がすべて」の時代に変わりつつある。
 国を強くしたいのなら、あらたに実力を付けた「ベンチャー経営者」(注:産業資本家)の意見を取り入れ、政治に参加させることも重要だ。

皇帝や王様は保守的(変化に弱い)だから、安定を求め、「変わる」ことを恐れる

 だけど、これからの時代は刻一刻と変化するビジネスチャンスに合わせ、個人が自由に決定できる環境と、「変わる」ことを恐れない社会の仕組みが必要となっていたわけだ。


どこかで「爆発」しそうですね。

―その通り。
 フランスでは2段階で爆発するよ。
 まず、第一段階で王様が追放されて、ビジネスに理解のある親戚の家系から王様が呼ばれた(注:7月革命)。


 でも、その王様は一部の極端なお金持ちの意見しか聞こうとしなかったから、企業家たちが怒って、もう一度王様を追放したんだ(注:2月革命)。


じゃあ、二度目の事件で、企業家たちが中心になった国づくりが進められたんですか?

―いや、さっき「古い体制」vs「新しい体制」の図を見たよね。

 「古い体制」を倒せば、単純に「新しい体制」が生まれるかのような図だけれど、現実はそんなに単純じゃないんだ。


 たとえ「古い体制」を倒したとしても、「新しい体制」も一枚岩というわけにはいかない。

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 「新たな体制」は「自由な競争」を推し進める体制のこと。技術革新によって生活水準がアップする面がある一方、経済的な格差も広がりやすい。そのしわ寄せは貧しい労働者に来てしまう(注:それを論じたマルクスはこの時代の最後の年に、世界中の労働者が立ち上がることを説く文書を発表)。


なるほど。「新たな時代」には「新たな時代」の対立軸があるわけですね。

―フランスで起きたこの二度目の革命(注:二月革命)には、多くの貧しい労働者の「味方」も参加した

 労働者たちは、「もう一度、世の中がひっくり返れば、ワンチャン、自分たち労働者にも優しい国に生まれ変わるかもしれない」と期待したわけだ。


 フランスで起きた一連の事件の影響はヨーロッパ中に広がり、各地で「昔に戻そうとする古臭い皇帝や王様」が倒され、自由にビジネスをしたい企業家たちが政治に参加するようになっていくことになるよ。もちろん地域によって差はあるけどね。


企業家たちは、どんな国づくりを目指したんですか?

―まずは「国が、国としてしっかりまとまる」ことを目指した。

 バラバラのままだと、ビジネスのルールがバラバラでは取引も不安定だ。
 それに言葉の違いも面倒だ。

 ドイツ人の住んでいる地域では、いちばん産業の発展していたプロイセンの王様が中心になって、まずは経済的にドイツをまとめようという運動が起きている。

 おなじくバラバラだったイタリア人の住む地域でも、統一をめざす運動がはじまっているよ。

 一方、オスマン帝国に支配されていたバルカン半島では、それを見習って自分たちの国をつくろうとする運動も盛んになっている。



 1815年~1848年の世界史のまとめは以上です。
 次回は1848年~1870年の世界を見ていきましょう。
 「工場」で「機械」を「蒸気力」で動かすことで、ヨーロッパを中心に社会の仕組みが一変していますが、ついに次回はその「お金もうけ」に「」が積極的に関与するようになっていきます。
 それとともに、世界中で新しい社会の「設定」が、ヨーロッパの「設定」を中心にして組み直されていくことになります―。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊