"世界史のなかの"日本史のまとめ 第7話 西日本への稲作の広がり(前600年~前400年)
”世界史のなかの”日本史のまとめでは、世界史の大きな流れと日本の歴史との関わりに焦点を当て、700万年前から現在までを26のピースに分けて案内しています。
ーこの時期、弥生文化は山陰や瀬戸内、それに現在の大阪のあたりにまで広がった。
おお。じわじわと東に広がっていますね。
―でも、岐阜以東はまだまだ「縄文文化」エリアだ。このへんから東は植生が異なることは、別のところで説明したよね(注:ブナ林・ナラ林、照葉樹林文化。下図は九州森林管理局ウェブサイトより)。人口密度は、この頃はまだ「縄文文化」エリアのほうが高いんだ。
沖縄のほうでは?
―この時期は「前期貝塚時代」に区分され、日本でいうところの弥生文化以前の状態だ。
この時代には竪穴住居が出現しているよ(注:仲原遺跡)。
へえ、沖縄にも竪穴住居ってあったんですか!
―上の遺跡はなかでも最大規模のものだね。
北海道では?
―まだ縄文文化が続いているよ。東北地方の遺跡とあわせ、世界遺産の暫定リストに載ったことで、遺跡の整備・広報が進んでいるよ。
そのころ世界では?
―さてさて、この時代にユーラシア大陸では遊牧民・狩猟採集エリア(赤いところ)・定住民エリア(緑色のところ)の両方に巨大な国が現れるよ。
その鍵を握ったのは、2つのエリアの「境い目」に暮らす人々だ。
軍事的にかなわない遊牧民の「脅威」に対応するため、経済的に優位な定住農業・牧畜エリアの支配領域をひろげながら、交易によって馬を獲得して、「広い範囲を支配する国」(注:領域国家)を建設するようになっていったんだ。
―日本はユーラシア大陸の東の端っこに位置するから、大陸からの直接的な軍事的行動を交わすことができたことが大きいね。
広くなった国は、どんなふうに支配をしたんですか?
―広げた領土から食料や労働力、金銀財宝といった「価値があるもの」を中央に集めて自分のモノとし、それを地方の人々を手なずけるためにバランスを考えて配った(注:集中と再配分)。
また、遊牧・狩猟採集エリアから馬を手に入れるために、集めた富を元手に貿易を「貿易専門グループ」に行わせたんだ。
資源をめぐっての争いも生まれそうですね。
―そうだね。
より多くの「価値あるもの」を得るためには、平和に貿易をおこなったり、開発を進めるよりも、まず先に領土を広げようという発想になってしまう。必然的に戦争が起きるわけだ。
日本では戦争は起きなかったんですか?
―この時代には、のちに大集落になる佐賀県の集落(注:吉野ヶ里遺跡)も、まだ大きな濠(ほり)に囲まれてはいなかった。
濠や高台の集落(注:高地性集落)は大きな戦いから身を護るためのものだから、それがまだ広く見られないということは、まだこの時期には集落を超えるの大規模な戦いはまだなかったということだろう。
それに比べ大陸では、遡ることに千年以上前から「金属」づくりがはじまっている。日本に金属器が入ってくるのは次の時代のこと。
すべての技術が大陸から伝わったわけではないけれど、テクノロジーに関する情報が伝わりにくい位置にあったのも、日本列島の人々の社会の変化がゆったりしたペースであったことに関係しているだろう。
支配エリアが広がれば広がるほど、関係する人の数が増え、その分さまざまなアイデアが出るようになりますもんね。
―そう。
支配エリアが広がり、人間集団のスケールが大きくなるのに並行して、「生き方」や「考え方」に関する新しい複雑な思想も現れるようになるよ。
また、ユーラシア大陸では海上交易ルートをめぐる争いも起きるようになっている。これについては後で見ることにしよう。
ユーラシア大陸よりも、アメリカ大陸のほうが農業ができるエリアが狭くないですか?
―そのとおり。
ミシシッピ川沿いと、メキシコ高原、ユカタン半島、アンデス山地、大西洋岸などに限られる。
その背景としては、ユーラシア大陸よりも、地域を超えて人や物が移動しにくいことが挙げられる。
馬のような屈強な家畜もともと分布しなかったため、陸上輸送は人力に頼るしかなかったんだ。それに海上輸送も風向きや海流の関係からユーラシア大陸ほどは発達しなかったんだ。
では、エリアごとに順番にみていこう。
●前600年~前400年のアメリカ
―現在のメキシコ南部(地図中のけ)で栄えていたオルメカ文化は衰え、その“お隣”に位置するマヤという地域に中心地が移っている。
マヤってどんなところなんですか?
―もっとも古くから繁栄したところは、ユカタン半島の南部の部分だね。
大きな川があるとろ以外にも都市がつくられ、カカオの取引で利益を得ていたようだ。
ユカタン半島の北はどうなっているんですか?
―こちらは乾燥した気候で、乾季と雨季に分かれる(注:サバナ気候)。
南のほうと違って大きな川もなく、水場の確保は大変だ。
というわけで、マヤの文明はまずはユカタン半島の南部のほうから栄えるよ。
ちなみにもっと南には高い山が連なるエリア(注:マヤ高地)もあって、火山灰が降り積もっていることから農業に向くので、都市が発達する。ナイフとして使うことのできる黒曜石(こくようせき)の産地でもあった。
地域によって気候が違うんですね。
―情報があまりないから、中央アメリカの文明は全部が全部「ジャングルの文明」と誤解されがちだ。
一方、南アメリカの太平洋岸(地図中のこ)では、現在のペルー南部に「地上絵」で有名なナスカ文化のルーツとなる文化(注:パラカス文化)が栄え始めている。こちらは海岸沿いの乾燥エリアを流れる川沿いを中心に発達した文明で、すでに大きな「地上絵」も描かれている。
現在のペルー中部でも、農業を基盤とした神殿を中心とする文化が信仰をあつめた(注:チャビン・デ・ワンタルを中心とする文化)。このへんではミイラをつくって、亡くなった人をとむらう文化もあるんだよ。
エジプトだけではないんですね。
―ちょうど同じ頃、日本の九州地方ではカメ(甕)のなかに死者を安置させたり(注:甕棺墓(かめかんぼ))、大きな岩を組んだお墓(注:支石墓)をつくる文化も見られるようになっている。
後者は朝鮮半島や中国の遼寧地方にも見られるから、何らかの文化的なつながりがあったことは間違いないだろう。
現在のベネズエラ付近でも、農業を基盤とした大きなまとまりが生まれている(注:チョレーラ文化)。
北アメリカには大きな都市は発展していなかったんですか?
ーミシシッピ川沿岸(地図中の「く」)では、大きなお墓モニュメント(注:マウンド)を特徴とする農耕文化が栄えているよ(注:アデナ文化、ホープウェル文化)。
アメリカではどんな作物が育てられていたんですか?
―マメ、トウガラシ、タバコ、アボガド、トウモロコシ、ワタ、センニンコク、カボチャ、スクワッシュ(小さいカボチャ)、ヒマワリ、ヒョウタン、ピーナッツ、サツマイモ、トマトなどだ。
中心地だったメキシコ高原から、北アメリカのほうに栽培エリアはずいぶんひろがっているね。
●前600年~前400年のオセアニア
―オセアニアでは、数千年前から続いていた島から島への移動はひと段落している。
●前600年~前400年の中央ユーラシア
―この時期、草原地帯の遊牧民は絶好調だ。
西の方(北を上にして左側。現在のウクライナあたり)ではスキタイというグループが南の定住民エリアに進出している。この時期に巨大な国を建設した国王は、スキタイとの戦いで負けているよ。
東の方でも遊牧民は中国の定住民エリアに進出している。中国の王様たちは遊牧民の進出を食い止めるため、石を積んで「防護壁」をつくっている。これがのちのちの「万里の長城」(ばんりのちょうじょう)のルーツだ。
●前600年~前400年のアジア
◇前600年~前400年の東アジア
この頃、黄河流域の周(注:周の領域。地図中の「お」)の王様は各地に急拡大していますね。
―そうだね。
乾燥地帯との境界エリアにある北部の周は、農業エリアである南部の勢力(注:楚、呉、越)にも、力を及ぼそうとしているよね。
どうして乾燥地帯と農業エリアの「境い目」にある周のパワーが強まっていったんですか?
―経済的にはそりゃあ大きな川のあるエリア(注:黄河の流域)のほうがいいわけだけど、安全面を考えると北方の武装した遊牧民が攻めてこないように手を打っておくことが必要だ。
そこで、当時最強の軍事力である「ウマ」や、騎馬に長けた兵を調達しやすい北のほうに、国の中心部がうつっていったんだ。この時代の戦争はまた「戦車」(注:チャリオット)を使った戦いが主流だけどね。
どうして戦車を使うんですか?
―まだ馬にまたがる技術が普及していなかったからだ。
馬イコールまたがるものって発想があるかもしれないけれど、「動物の背中に別の動物がまたがり、自由に移動する」ってのは、よくよく考えてみると異常なことでしょ。
たしかに。
―前に出てきたスキタイ人に先行する遊牧民たちが、その技術を長い時間をかけて獲得していったようなんだ。
さて、中国の周は広いエリアに影響力を及ぼしたわけだけど、支配する技術はまだ甘かった。
この時代の終わりにかけて家来どうしの戦いがエスカレートしてしまっている。
でも周の王様の権威が衰えた以上、これからの時代は実力がすべてだ。「新しい時代をどう生きるべきか?」「どうすれば国は生き残れるのか?」
儒学というグループを立ち上げた人(注:孔子)は、各地の支配者のところを訪ね歩いてこう説いた。
「周の時代を思い出そうではないか。あの頃は、周の王様が儀式をおこない、それによってちゃんとした秩序があった。礼儀をちゃんとすれば、人々の心も家も国もまとまるはずじゃ」
しかし結局、周の王様は秩序を復活させることはできず、家来たちのコントロール不能なバトルロワイヤルがはじまっていく。
もう周の王様などお構いなし。鉄器(中国は独自に鉄を発明していた)が農業に導入され、農業生産力をアップさせた国々が、軍事力もパワーアップさせて互いに争う時代(注:戦国時代)のはじまりだ。
農業がさかんになれば余裕が出て商業も盛んになりますね。
―そのとおり。青銅でできたお金もつくられるようになっているよ。
一方、中国の周辺では、中国文化とは異なるバラエティ豊かなグループ(チベット人や越人)、巴人や蜀人など)も活動している。
このエリアに、はじめから一つの「中国文化」があったわけじゃないんだよ。
◇前600年~前400年の東南アジア
―東南アジアでは米などの農業の規模が大きくなった場所で、リーダーが現れているよ。
リーダーは各地から資源を集め、光り輝く青銅器のドラムを「いうことを聞いた」相手を手なずけるために配ったようで、この時期から東南アジアのかなり広い範囲で同じ形のドラムが見つかるようになる(注:ドンソン文化)。
これって日本の「銅鐸」にも似ていますね。
―楽器としてお祭りで使用しているあたりも似ているよね。
東南アジアにはとっても長い川がいくつか流れていますね。
―北の険しい山々から、夏にたっぷり降る雨を集めて大きな川になるんだよ。
中国のほうから流れてくるメコン川が、一番長い川だ。
どうして東南アジアでは稲作が盛んなんですか?
―こういう大きな川が、上流の険しい山の土砂を削って河口に運ぶことで、平らで広い土地を作ってくれるからだよ。
そこがお米の栽培に適しているわけですね。
―そうそう。
ただ、川の通り道となるところは、雨季と乾季のはっきりしている「サバナ気候」だから、水が足りなくなってしまう時期もある。
いつが乾季なんですか?
―だいたい5~10月が雨季で、11月~4月のシーズンが乾季だよ。
インドシナ半島の西側の部分は南からの季節風が山にぶつかって、雨がめちゃくちゃ降りまくる(注:熱帯モンスーン気候)。
日本と違って、年に3回もお米の収穫ができるところもあるんだ。
◇前600年~前400年の南アジア
―南アジアでは、インドの北部(地図中の「え」)でいくつもの国が覇権を争っている(注:十六大国)。
戦争が激化する中、新しい価値観も生まれる。
従来はバラモンという神官階級が強い力を持っていたんだけれど、それを批判する考えだ。そのひとつが「仏教」だ。
ほかにも「ジャイナ教」という、「動物の命を大切にする教え」も流行する。
仏教にしろジャイナ教にしろ、基本的には「動物のお肉を食べない」考え方をとった。「精進料理」(しょうじんりょうり)って聞いたことあるよね。
ベジタリアンですね? でもどうしてインドではそういう考えが広まったんですか?
―どうしてだろうね。
こういう「タブー」にはなんらかの合理的な理由があることも多い。
殺した動物の肉や血が「汚い」と考えられたこと。
それに、昔はインドの気候を考えるとお肉を衛生的に扱うことができなかったことなどが関係しているんじゃないかな。
◇前600年~前400年の西アジア
―4つの王国が並び立つ時代は、イラン高原のペルシア人の世界征服によって幕を閉じた(注:アケメネス朝。地図中の「う」)。
イラン高原ってどんな気候なんですか?
―雨がほとんど降らない乾燥気候だ。
砂漠のところと、まばらに草原になっているところ(注:ステップ)があって、草と水場を頼りに遊牧生活が営まれている。
そんな気候、日本にはないですね。
―その土地の風土は、生き方や考え方とは無縁ではないよね。
彼らペルシア人はこの時代に馬を乗りこなして西アジア史上最大の領土を支配することになるよ(注:アケメネス(ハカーマニシュ)朝)。
広い領土をどうやって支配したんでしょうか?
―領土を細かい地域に分けて、そこに役人を派遣したんだ。取り立てた税を横取りする悪徳役人を防止するために、監視役(注:王の目、王の耳)まで派遣する用意周到さだった。
命令は文書によって伝え、急な命令を伝えるために馬用の高速道路まで整備された。共通語は西アジアで広く話されていたアラム語だ。
ゾロアスター教が正義の考えとされ、神をまつる神殿や王宮(注:ペルセポリス、下図)も建てられたよ。
イラン高原は、エジプトやメソポタミアの方面と、インドや中央アジアの方面の「中間地点」に位置するよね。だから、さまざまな物が行き交う場所として重要視されていたんだ。
日本にはまだそんな大きな国はできませんね。
―日本が「遅れているから」とか「進んでいるから」っていう問題ではなくて、環境や地理的な位置の違いが背景にあることはわかったよね。
アケメネス朝(地図中の「う」)の中心地って、これまで「大きな川」の水の恵みで農業をやっていたエリアから、ちょっと北のほうにズレていますよね?
―お、いいところに気がついたね。
前の時代に地中海とペルシャ湾・紅海の「間」にはさまれた農業エリアを支配したアッシリアの中心部は大きな川のエリア(注:下図のニネヴェ(世界の歴史マップより))にあったよね。
でも、アケメネス朝(地図中の「う」)の中心部は、もうちょっと東北方向の内陸寄りだ。
どうしてですか?
―経済的にはそりゃあ大きな川のあるエリア(注:メソポタミア)のほうがいいわけだけど、安全面を考えると北方の武装した遊牧民(注:スキタイ)が攻めてこないように手を打っておくことが必要だ。
そこで、当時最強の軍事力は「ウマ」に引かせる戦車だ。それを調達しやすい北のほうに、国の中心部がうつっていったんだ。
なるほど。中国のところと同じ話ですね。
―また、イラン高原は青銅器をつくるための材料(スズや銅)の鉱山が分布し、それらを結ぶための貿易ルート沿いに都市が点在している。
アフガニスタンの方まで行けば金(ゴールド)の鉱山もあるし、アム川を超えればみんなが欲しがる青くて美しい宝石(トルコ石)の産地もある。
ちょっと気になったんですけど、どうしてこんなに細かく当時の歴史について分かるんですか? 日本についての情報はとても少ないのに。
―ユーラシア大陸では、有能な歴史家が登場し、事細かに当時の世界のことを記録しているからだ。
自分たちのグループの歴史について、文字や言い伝えによって語り継ぐことは、多くの社会に見られる。
でも、この時期のギリシャの歴史家(注:ヘロドトス)と、次の次の時期の中国の歴史家(注:司馬遷(しばせん))は、自分の属する社会を超え、文化も価値観もまったく違う外の社会の歴史も記録したんだ。
こうして、ユーラシア大陸の東と西で、実際に現地を視察したり人から情報を集めたりして、当時知りうる限りの「世界史」がつくられたんだ。
すごいですね。
―2人が共通して観察したのは中央ユーラシアの騎馬遊牧民たち。自分たちの社会とはまるっきり違うライフスタイルを送る彼らの暮らしぶりを、「自分たちとは違う別の価値」としてしっかり認め、事実をもとに書き出すその視点は見事だ。
いきなりがっつり読むのはちょっと難しいかもしれないけど、トライしてみると面白いと思うよ。
●前600年~前400年のアフリカ
―西アフリカではバントゥー系の人々の移動が続いているよ(注:地図中の「か」から「き」へ)。西に向かった集団が多かった。
どうして西に向かうんですか?
―南に行くと赤道付近の熱帯雨林が広がっているでしょ。
火を放って木を燃やして灰をつくり、そこで作物を育てる農業(注:焼畑農業)もできるにはできるけど、狩りや採集、それに釣りをする人々も大勢暮らしている。
バンツー系の人たちの中は、熱帯雨林迂回(うかい)して西に向かった人も多かった。
年中気温が高く、雨が降る時期と降らない時期がはっきりしているエリア(注:サバナ気候)では、草原地帯が続いているから、家畜を飼うことや植物を生やすことができる。
乾燥に強いモロコシとかアワを栽培することが多い。
でも、雨が降らない時期があったら栽培は大変じゃないですか?
―そんなときに困らないように、ひとつの畑に数種類の作物を植え付けておくんだよ。
たとえば、モロコシ(アズキモロコシ、サトウモロコシ)とササゲ(インゲンマメ)を一緒の畑に植えたりするんだ(注:混作)。
主食は、モロコシ、キャッサバ、ヤムイモなどだ。
ほかにもトウジンビエ、シコクビエ(下図(農研機構ウェブサイトより))、フォニオやヤムイモ(「フフ」に加工する)なども栽培される。
それに家畜も一緒に連れておけば安心だ。リスクを分散させることができる。
家畜って、どんな動物を飼うんですか?
―サバンナ(乾季と雨季に分かれる熱帯の草原)では牛を飼うことが多いね。
もっと乾燥しているところ(現在のソマリアとかケニアの北部)だと、ラクダ。
若干雨が降るところでは羊とかヤギとかだ。
遊牧生活を送る人たちと農業する人たちの間には、ユーラシア大陸とおなじように「持ちつ持たれつ」の共存関係だけでなく、土地をめぐる競争関係も起きているよ。
北アフリカはどんな感じですか?
―地中海の周辺部は冬になると雨が見込めるから、小麦も栽培できる。
乾燥地域では泉や、外部から流れてくる大きな川(注:外来河川)、それに人工的な地下水路(注:北アフリカではフォガラと呼ぶ)も使われているよ。
乾燥しているところでは、どんなものを育てているんですか?
―ナツメヤシが重要だ。
実は栄養たっぷりだし、葉っぱはカゴや縄の材料になる。
木の幹は建物にも使えるよ。
エジプトはまだ栄えていますか?
―この時代のエジプトは西アジアのペルシア人の支配下に入っているね。
エジプトに流れ込むナイル川の上流部(現在のスーダン)では、鉄を製造して力をつけている国(注:メロエ王国)がある。
この王国の物資を、紅海から運んだ物資とトレードする貿易で結びついたエチオピア高原では、涼しく住みやすい気候も手伝って、独自の作物(注:エンセーテ、バナナやテフ)を栽培して人口が増え「大きなまとまり」に発展しつつある。
●前600年~前400年のヨーロッパ
―ヨーロッパではケルト人が鉄器を手にして各地に遠征している。
彼らが「神聖な木」と大切にする「オーク」の木は、当時の西ヨーロッパ一帯に広がっていた。
昔のヨーロッパは森に覆われていたんですね。
―「ヘンゼルとグレーテル」なんて話は、「森に覆われていたころ」のヨーロッパを伝えるお話だ。
この当時、やはり「最先端」の地域は南の方の地中海沿岸。
今に比べて木に覆われていたところも多かったけど、開発が進むにつれて木がほとんどなくなる「はげ山」も増えていったようだ。
歴史が長いところほど、環境破壊もハイペースなわけですね。
―人口密集地帯はそうなりがちだね。
気候的には夏は乾燥するけど、冬でも暖かくて雨が多いから牧草や小麦がすくすくと育つエリアだ(注:地中海性気候)。
木材が足りなくなると、建物には石灰岩が利用されることが多くなっていった。
だから「白い建物」が多いんですね。
―この時期の地中海で貿易の覇権を争っていたのは、北岸を中心とするギリシア人(地図中の「あ」)、南岸を中心とするフェニキア人(地図中の「い」)だ。
イタリア中部のローマ人も、ライバルのギリシア人やフェニキア人を押しのけながら領土を広げつつあるけど、まだこの時期にはイタリア北部のエトルリア人の勢力が強い。
エトルリア人はイタリア北部の豊かな平野を支配し、鉄と銅の資源もフル活用して、生き生きとした美術や建築を花開かせたんだよ)。
ローマ人よりも前に、イタリアで活躍していた人がいたんですね。
一方、西アジアのペルシア人(注:アケメネス朝、地図中の「う」)がビジネスチャンスを求めて進出してくると、ギリシャは征服される危機に陥った。
ペルシア人は、ギリシャのライバルだったフェニキア人の海軍力を頼ったけど、ギリシャではアテネという国が自前の海軍を創設して撃退することに成功し、戦争は終わった(注:ペルシア戦争)。
勝利に貢献したアテネという国は、戦後に「自分のおかげで勝てたのだ」とギリシャのほかの国を支配下に置くようになり、ライバルだったスパルタという国の反感を買い、戦争に発展する。
時代が混乱すると新しい考え方が芽生えそうですね?
―その通り。
ギリシアの人々は劇が大好きで、戦争の時期には悲劇がたくさん上演されたよ。
また、「一度きりの人生をより良く生きるにはどうすればいいか」ということをつき詰めて考える人も現れるようになった。
今回の3冊セレクト
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