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【図解】ゼロからはじめる世界史のまとめ⑲ 1848年~1870年の世界(上)

今回は1848年~1870年の世界をみていきます。
イギリスで始まった、「工場」の「機械」を「蒸気力」で動かすイノベーションが、世界の「設定」を一層大きく変える中、ヨーロッパが「動乱の時代」を経て「国民による国づくり」を展開していく時代です。
ちょうどその陰で、特にアジアがヨーロッパ諸国だけでなく、太平洋に到達していたアメリカ合衆国による進出を受けることになりますが、その度合いは地域によってさまざま。

日本でいうと、江戸時代の終わりから明治時代の初めにかけての時代です。

日本の歴史を理解するには世界史理解が不可欠。
ーそのことが身に染みて感じられる時代となります。

このへんの世界史の同時的展開については、近年さまざまな一般向けの書籍も出ています。初心者向けとは言えないですが、さらに勉強されたい方はご覧になってみてください。

産業革命の影響が世界に広まっていく時代②


さて、まず大きく世界を眺めてみよう。


この時代のヨーロッパではまだ自由が締め付けられる状況が続いていますか?

―ウィーン体制のことだね。
 この時代の初めに各地で反乱が起きて崩壊してしまう。

 その影響でヨーロッパ諸国のアジアへの進出は、以前よりも緩むんだ。


前の時代にはアヘンを売りつけようとするとんでもない戦争がありましたね。 

―イギリスが仕掛けたアヘン戦争(1840年~1842年)のことだね。

 当時のヨーロッパでは工業化できていた国はイギリスだけだったから、アジアにまで海軍を大規模に展開できたのもイギリスだけだった。



向かうところ敵なしの状況ですねえ。

―どうしてそんなに全力でアジアに突進することができたかというと、ヨーロッパにおけるイギリスの影響力が強力だったことも大きいけど、他の国々同士が戦争にならないように力関係のバランスをとる(注:勢力均衡)ことで平和が保たれていたことも大きいね。 


アジアとヨーロッパを同時に見てみないとわからないですね。

―でも、1848年の前後には、国内の新しい動きを押さえつけることがもはやできなくなって、ヨーロッパに「革命」の渦が巻き起こることになったんだ(注:1848年革命)。


今回の「革命」のポイントは?

―ヨーロッパ諸国でいろんな革命が起きる。



 革命の背景は西ヨーロッパと東ヨーロッパでは異なる部分もある。


 例えば、工業化を先取りしたイギリス、オランダ、フランスでは、「工業化した社会ならではの社会問題」が起きるよね。


労働者をこき使うような問題ですね。

―そう。長い目で見ると、社会全体の生活水準はじりじり上がっていくんだけれども、労働者を保護するルールが杜撰(ずさん)であったこの頃、その境遇は本当にひどかった。

 ちょうどこの時期を舞台にした映画『レ・ミゼラブル』を観たことがあれば、イメージがつくかもしれないね。


あの、初めのほうのシーン。パリの貧しい人たちのシーンですね。

―そうそう。

 工業化にはほかにも「しわ寄せ」があってね、工業原料が豊かなアジアをめぐるこれらヨーロッパ諸国による取り合いが、対立に発展することになるんだ。

 アジアの領土そのものだけでなく、その周辺の交通路・輸送路の確保も問題になる。

 遠い距離同士を結ぶコミュニケーション技術が開発されたのもこの時期で、その通信施設・設備の設置をめぐっても対立が起きるんだ。




ナポレオン戦争が終わった後、しばらく落ち着いていたヨーロッパが、またきな臭い感じになっていきそうですね...。


―そうだね。
 なお、東ヨーロッパでは、西ヨーロッパとは異なる要因から混乱するよ。



 この時期の東ヨーロッパ、例えば現在のドイツ、ポーランド、ハンガリー、チェコ、ロシアといった地域は、工業化に決定的な遅れをとっていた。

 しかも西ヨーロッパに比べると、領域内の「統一」も十分ではない



 たとえばオーストリアという国の中には、ドイツ人、イタリア人、ポーランド人、チェコ人、ロシア人、ハンガリー人、クロアチア人、スロベニア人などなど、めちゃめちゃたくさんの民族がいるわけ。


1910年のオーストリア(オーストリア=ハンガリー二重帝国)の民族分布であるが、複雑なモザイク状になっていることが分かるだろう(wikicommons


そういうのを「帝国」っていうんでですよね。


―うん。

 まあ、前の時期ならまだしも、この時期って、それぞれの民族が「自分たちの国をつくろう!」と団結意識を高めていく時期でしょ。


 それに乗り遅れたら「支配される側」になってしまうという、世界的な同時代的雰囲気があるわけ。




やられる前に、まとまろう!というわけですね。


―でもなかなかそれも難しい。

 東ヨーロッパで支配される側に立たされていた民族は、たいてい農奴だ。


農奴(「領主に私物化された農民」)って...まだそんな中世じみたことを...

―農民を「私有物」的な扱いをする領主階級(=たいていは、良い家柄を誇る貴族たち)が、政治の中心を牛耳っていたからね。

 だけど、西ヨーロッパでは工業化がどんどん進んでいるでしょ。


工業をやるってことは、農作業をやるヒマがないですね。


―そう。
 となると農作物は誰が供給するんだってことになるでしょ。

 だからこの時期、東ヨーロッパは「農業立国」を図ろうとするわけだ。つくって西ヨーロッパに輸出すれば売れるんだから。

 じゃんじゃん売ればもうかることは間違いなし。

 でも、現状は?


多くの土地は領主が私物化しています。

―しかも働き手はやる気のない農奴ってわけだ。

 それじゃあ超絶効率が悪いわけ。

 だから、輸出でガンガンもうけたい企業家だったらこう考える。

 「農奴を解放して、労働者として雇う仕組みを生み出そう」

 「領主から土地を買収して、私有地として農業経営をしよう」


なるほど。農奴たちはどう考えたんですかね?

―そりゃ解放されたいに決まってる。

 そのとき支配を受けている農奴たちは、「自分たちは本当は○○人なのだから、オーストリアの支配を受けているのはおかしい! 立ち上がって自分たちの国をつくるべきだ!」と主張するようになるわけ。


1つの民族が1つの国をつくらなきゃ、これからは食うか食われるかの時代なのだから大変だ!っていうわけですね。

―そういうこと。

 西ヨーロッパと東ヨーロッパでは、同じ時期に起きた革命といえども毛色がやや異なることがわかったと思う。

 でもどれにも共通しているのは「国民としてまとまろう!」「憲法を作ろう!」「工業化した世界に経済の制度を対応させよう!」という要求だ。

 対応に追われたヨーロッパ諸国、特にロシアとかフランスは、軍をアジアからヨーロッパに戻す必要に迫られた。


ところで、トップランナーを走るイギリスではどんなことが起きたんでしょうか?

―イギリスでは労働者が選挙権を求める大集会が盛り上がった(注:チャーティスト運動)けど、大陸ほどの混乱には発展しなかった。


なるほど、だからイギリスはアジアに進出ができるわけですね。

―そうそう。
 そういうわけでイギリスはインドでさらに勢力を拡大させ(注:シク王国の滅亡)、ビルマの南部も手に入れることに成功するんだ。

 ところで、ほかにもアジアに進出する余裕のある国があるけどわかるかな?


う~ん、どこでしょう。

―ヒントは、この時代に大量の金(注:ゴールドラッシュ)が見つかった国...と言えば?


アメリカ合衆国ですね!

―そうそう。
 ゴールドラッシュによって西部への移住はますますブームとなり、アメリカ合衆国の領土はあっという間に太平洋沿岸に到達することになったんだ。


 そしてヨーロッパが1848年革命で大変な時期を前に、すでに東アジアの日本や朝鮮を「開国」させようとアクションを起こしていった。


「開国」っていうのは、「鎖国」の反対の言葉ですね?

―そうそう。

    他の国とどう付き合うかということ自体、東アジアとヨーロッパではとっても大きな差があったことも以前からずっと見てきたよね。

 東アジアでは、その土地の政権が海域を出入りする船をガッチリと出入国管理することが一般的だった。
 でもその代わり、今風の「国境」とか「領土」「領海」といった概念はあいまいだ。
 しかし当時のヨーロッパの場合、「貿易は自由にやるべきだ」「外国に開かれた港を用意するべきだ」「国境や領域をガッチリと設定するべきだ」という貿易観・国家観を持っていた。

 で、さらに当時のアメリカ合衆国は捕鯨が重要産業だったので、広い太平洋で船が難破したときに助けを求めることができるに上陸地点を確保しておくことが求められていた。


アメリカはどうしてこれだけ急拡大できたんですか?

―ヨーロッパからたくさんの労働者を移民として受け入れたんだ。
 アメリカにはヨーロッパのような「伝統」がないから、みんなゼロから頑張って成功することを夢見たんだ。

 それに土地がたくさんあった。
 インディアンたちから奪った土地なんだけどね。
 カナダにも進出しようとしたけど、そこを手放したくないイギリスからの働きかけもあって、カナダは「自治領」(じちりょう)という「まとまり」を形成する。完全な独立ではないけれど、これが今のカナダのルーツだよ。

 こうして次第に「アメリカっぽい文化」がつくられていくんだけど、そこには入れてもらえず差別を受け続けた人たちがいることも忘れてはならない。


 さて、こうしてアメリカ合衆国は日本を初めとする東アジアにひょっこり顔を出すことになるわけだ。

日本の対応は?

―昔は「驚いて慌てふためいた」「国論が二分され、大混乱に陥った」といった解釈が一般的だったけれど、近年では江戸幕府がアメリカ合衆国の出現以前にさまざまな準備をしていたことも明らかになっている。


どうして入念に準備できたんですか?

―ひとつはアメリカ合衆国が日本来航前にオランダを通して来航を予告され、またナポレオン戦争後に工業化を進めていたヨーロッパの情勢を伝えられていたこと(注:オランダ国王から大日本国君に向けた親書)。

 もうひとつは、お隣の中国(清)がイギリスの強大な軍事力の前に破れた情報(注:『海国図志』)を事前につかんでいたからだ。


なるほど。中国の敗戦を他山の石としたことになりますね。

―イギリスがいかに強い軍隊を持っているか、正確に把握していたんだよ。

    だからこそ、アヘン戦争中にすでに幕府は「外国船を発見したらただちに攻撃せよ!」とのお触れ(注:異国船打払令)を撤回し、「漂流している外国船は、救護をするように」とのお触れ(注:薪水給与令)を出すに至った。また、海外情勢の変化に対応した改革も進められていったんだ(注:老中首座水野忠邦による天保の改革)。

    日本伝統の論理を持ち出して抵抗するよりは、国際情勢に合わせて「外交」とやらをやり繰りすることが大切だという認識が共有されるようになっていたわけだ。


天保の改革って江戸時代の三大改革のひとつですよね。世界史の中で見ると、このタイミングの話なんですね。

ーでも、実際にはただちにイギリス、フランス、ロシアなどのヨーロッパの強国が来て開港を強く促すことはなかったし、アメリカ合衆国も一時的に進出を強めた後は積極的に来航することはなくなった。


どうしてですか?

ーヨーロッパ諸国は先ほど言ったように1848年革命によって「ウィーン体制」という秩序が崩壊したことが大きいね。
    アジアの覇権をめぐって火花を散らすようになっていたイギリスとロシアも、大々的に対立する余裕を失っていたんだ。

    アメリカ合衆国もメキシコとの戦争に忙しかった(注:米墨戦争)。

 

で、ヨーロッパの情勢はどうなっちゃったんですか?

ー各地で、これまで支配されていた民族が自分たちの国をつくろうと立ち上がったり、自由なビジネスが展開できるように古い体制を倒そうという動きが数年の間続いた。



    けれどその多くは挫折。

 各地に大きな爪痕を残した。

フランスでの革命(注:二月革命)を描いた絵 Lamartine in front of the Town Hall of Paris rejects the red flag on 25 February 1848


ドイツのベルリンでの革命(注:三月革命)を描いた絵 Iconic picture of the 1848 revolution in Berlin


ヨーロッパの「ウィーン体制」を主導したオーストリアの政治家(注:メッテルニヒ)が、ウィーンの革命を受け亡命した事件を風刺した絵 Zeigenössische Karikatur zur Flucht Metternichs aus dem März 1848


オーストリアからの独立を目指して戦うハンガリーの人々の革命を描いた絵 Than tapiobicskei utközet2 1849 aprilis 4.jpg


***



   で、ヨーロッパのゴタゴタの収拾がついて一段落すると、ゴタゴタの舞台は今度は「西アジア方面」に移った。


なぜ西アジア?

ー当時の西アジアではオスマン帝国が依然として広い領域を統治していた。

    しかし中央政府のパワーが弱まり、各地で支配されていた民族が立ち上がって、そこにヨーロッパ諸国が介入する状況が生まれていたんだ(注:東方問題)。


それってやはりヨーロッパでの動きが関係しているんですかね。

ー民族が「自分たちの国をつくろう」(注:ナショナリズム)という動きは、少なからず影響を受けているね。

    でも仮にロシアが介入に成功してオスマン帝国の領域内に進出することができるようになったら、工業化を驀進しているイギリスにとって大きな痛手となる。


なぜ?

ーイギリスが本気で植民地支配しているインドに向かうルートが脅かされるおそれがあるからだ。

    だからイギリスはロシアの南下を食い止めたい。

    そこで大戦争が勃発する(注:クリミア戦争)。


ヨーロッパ諸国が激突する戦争って、久方ぶりの話ですね。

ーナポレオン戦争以来の平和が崩れたわけだ。

    これにはイギリスでさえも財政が傾くほどの戦費が投入される始末。
    イギリスの外交的な努力により、フランスはイギリス側に立ってロシアと対決することとなった。


このときのフランスはどんな状態なんですか?

ー1848年革命の直後に、労働者が政権に参加した政府(注:二月共和政)が発足したんだけど、ほどなくして政策につまづいて労働者の指示を失った。混乱をおさめたのは、あのナポレオンの血筋の男(注:ルイ・ナポレオン。ナポレオンの甥)だった。


    彼はナポレオン人気にあやかりつつ、フランスのさまざまな立場の人々の支持をたくみに取り付けた。
    で、フランスを工業化させるために対外植民地を得ることに腐心。この時期には世界各地に出兵した。
    そのひとつが、この対ロシア戦争だった。


    フランスはこのとき、極東に進出していたロシアの基地も攻撃しているんだよ(注:ペトロパヴロフスクの攻撃)。



でも、オスマン帝国からしてみると、自分の領土をめぐってフランス、イギリス、そしてロシアが火花を散らしているわけですよね。もうわけがわからない感じでは...

ーフランス、イギリスはオスマン帝国側に立って参戦し勝利したので、オスマン帝国は「勝者」ではある。

    だけど、フランス、イギリスは

    「誰のおかげで勝てたと思ってんだ?」ーと、後ろからささやく(笑)


ゆすりたかり...

ー英仏にとっても大変な犠牲をともなった戦争だったからね。
   こうして英仏に対し、オスマン帝国は経済的に従属されるようになってしまうんだ。


クリミア戦争って、そんなに大規模な戦争だったんですね。

ーそう、つまりその裏(アジア)では?


アジアでイギリス、フランス、ロシアが活動する余力はなくなります。

ーそう、つまり?


あっ、なるほど! クリミア戦争(1853〜1856年)中にー


ーそう! ペリーが来航するわけだね(1853・1854年)。


(続く)

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊