雑記:伊豆韮山界隈の史跡

今回は静岡県の伊豆の国市、合併前は韮山町であった界隈の史跡を一挙紹介。

数年前に伊豆長岡駅でレンタサイクルを借り、韮山駅・原木駅あたりまで足を伸ばして可能な限りの寺院や史跡を回ったが、まずは源頼朝配流の地である蛭ヶ小島。

現在は史跡公園になっており、石碑と源頼朝・北条政子夫妻の銅像が建っている。

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韮山駅からほど近い願成就院。

運慶作の国宝の仏像五体を所蔵する伊豆の名刹で、北条時政の開基。

寺には北条時政の木像が伝わり、境内には北条時政の墓があるが、これは戦国時代の宝篋印塔の笠を積み重ねたもので当時のものではない。

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願成就院の傍らには堀越公方の御所があり、境内には北条早雲(伊勢宗瑞)によって攻め滅ぼされた最後の堀越公方・足利茶々丸の墓もある。

現在の墓は石碑のような形であるが、古写真には別の石塔が移っているので、こちらは近年になって造られたものであろう。

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願成就院から近い成福寺は、寺伝では北条時宗の三子の北条正宗が開いたとされ、境内には北条正宗(向かって右塔)、北条時宗(向かって左塔)、北条時宗夫人の覚山尼の墓(中央)の墓と呼ばれる石塔があるが、正宗なる人物の存在は未詳で、石塔の年代も合わない。

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また、境内には北条氏歴代廟所と呼ばれる石塔群もあるが、これも戦国時代頃の石塔である。

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韮山駅の東方の奈古屋にある国清寺は、上杉憲顕の開基で関東十刹に列せられた名刹。

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境内には上杉憲顕と、そのライヴァルとも言うべき関東管領・畠山国清の墓がある。

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向かって左側が国清、右側が憲顕の墓と言うが、どちらも乱積みで原型をとどめておらず、国清塔はかろうじて南北朝時代から室町時代前期の石塔のパーツを含むだろうか(国清の墓は火輪と水輪はあるいは一対かも知れないが、地輪は失われて宝篋印塔の塔身で代用しており、憲顕はすべてが別パーツで、地輪はやはり宝篋印塔の基礎で代用している)。

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最後に原木駅の東方一キロ強の所にある長昌院。

原木駅の案内板によると、長昌院には「長崎次郎高資」の墓があると言うが、実際に寺に行ってみると、墓地内にあるのは高資の父で、高資とともに鎌倉幕府末期に得宗・北条高時の信任を得て辣腕を振るった長崎高綱(円喜)の墓である(なお、駅の案内板は極めていい加減で、案内板では長昌院は駅から「北西五百メートル」とあるが、実際には北東である)。

住職によれば、円喜は出家後に伊豆にあった領地に隠居し、鎌倉幕府滅亡後に一族が長昌院に供養塔を作ったのだと言う。

円喜の墓と伝承される石塔は、宝篋印塔の基壇の上に一石五輪塔が載っているものである。

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ちなみに、韮山・伊豆長岡周辺は、流石に北条氏の本拠地だっただけにゆかりの寺院が多く、他にも北条時頼や北条義時の墓される石塔があるが、時間の関係でこの時は行かなかった(石塔自体はずっと後代のものである)。


・2022年8月24日追記

古い写真の中から、上記の時よりもさらに前に伊豆を訪れた際の写真が見つかり、その際に訪れた北条義時、北条時頼の墓の写真があったので改めて紹介する(なお、二十年ほど前に訪れた時で、画像は当時フィルムで撮影した写真を電子化したものである)。

まず江間の北條寺にある北条義時夫妻の墓。

江間は義時の所領だった場所(当初彼は「江間小四郎」と称した)であり、北條寺も義時の開基とされる。

本堂裏の墓地に義時夫妻の墓はあるが、石塔はずっと後代のもので、かつ乱積みである(二枚目が義時の墓)。

なお、ここに墓所のある夫人は、複数人いる義時の正室のうち、最後の正室である伊賀の方(伊賀朝光の娘)のこととされる。


伊豆長岡の温泉街の中にある最明寺は、五代執権北条時頼の分骨を納めるために建立されたと伝わり、寺名も時頼の法号に由来する。

境内には時頼の分骨墓があるが、石塔自体は戦国期の五輪塔と宝篋印塔の乱積みである。

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