中部地方の石造物⑱:藤枝市の石造物(徧照寺五輪塔、長慶寺五輪塔、鬼岩寺石塔群)

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名称:①徧照寺五輪塔 ②長慶寺五輪塔 ③鬼岩寺石塔群

伝承など:①今川範氏、氏家の墓 ②今川泰氏の墓 ③矢部隼人の墓

所在地:①静岡県藤枝市花倉 徧照寺 ②同 長慶寺 ③藤枝 鬼岩寺


静岡県藤枝市には中世石塔が多く点在しているが、多くは乱積みや欠損部分があって完形のものはそれほど多くない。

今回は藤枝市内にある中世石塔を、乱積み・完形含めていくつか紹介していく。

まず藤枝市花倉徧照寺であるが、同地は今川氏が駿河に勢力を拡大する過程で最初に居館を築いた場所で、南北朝時代に今川範氏はこの地に八幡宮を勧進し、また徧照寺を開いた。

後年に至るまで花倉は今川氏と関わりが深く、戦国時代に今川氏輝死後の家督をめぐるお家騒動の「花倉の乱」で、今川義元と家督を争って敗れた玄広恵探は徧照寺の住持であった。

現在、徧照寺には今川氏ゆかりの石塔が残されており、本堂の横には二基の五輪塔と、乱積みの石塔群がある。

五輪塔も後代に出土したものを組み直したために乱積みであるが、向かって右側の五輪塔(二枚目)が開基の今川範氏の墓、左側の五輪塔(三枚目)が範氏の長子で父に先立ち早逝した今川氏家の墓とされる。

このニ基は乱積みであるものの、範氏塔は地輪と火輪が南北朝時代のもので、本来の墓塔のパーツと考えられる。

境内墓地には、他にも世代墓地内に中世の五輪塔があり、完形ではないが南北朝時代のものが二基ある(四枚目)。

なお、今川範氏の墓とされる石塔は、静岡県島田市大草の慶寿寺にもある。

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慶寿寺は、元々今川範氏の居館だった場所とされ、こちらの墓塔は静岡県東部に見られる「宝篋五輪」と呼ばれる特殊な形式の石塔であるが、時代的には後年の戦国期頃の造立と考えられ、石塔の年代で言えば、徧照寺の五輪塔の方が範氏の没年と合致する。

慶寿寺の石塔は、おそらく後年造立された範氏の供養塔であろう。


花倉には徧照寺の他にも今川泰範の菩提寺の長慶寺があり、同寺には泰範の墓とされる五輪塔が残されておる。

泰範は駿河今川家三代当主で、兄の氏家の死によって僧から還俗して家督を継ぎ、足利義満の信任を受けて今川氏隆盛の基礎を築いた。

泰範の墓(下の写真二枚目)は境内の墓地内にあり、完形ではあるものの室町時代後期から戦国期の形式であり、泰範の没年よりもかなり後になってから造立されたものである。

後年造立された供養塔かも知れないが、あるいは元来は別の人物の墓塔であった可能性もある。

傍らにある小型の無縫塔(三枚目)は、今川義元を補佐して外交僧として活躍した太原崇孚雪斎の墓で、晩年に長慶寺に隠遁したために同寺に墓所がある。

最後に紹介するのは藤枝市藤枝にある鬼岩寺の石塔群で、同寺は奈良時代創建と言う伝承を持ち、駿河地方でも屈指の古刹で多くの伝説や縁起が伝わる。

鬼岩寺の境内には出土した石造物が集められており、その中でも在銘の宝篋印塔と五輪塔あわせて四基が覆屋に納められている。

向かって右端の五輪塔は応永十一年銘、右から二番目の五輪塔は応安六年銘、左から二番目の宝篋印塔は永徳元年銘、左端の宝篋印塔は応永元年銘と、南北朝時代から室町時代初期にかけての銘文があるが、左端の応永元年銘宝篋印塔以外は乱積みと思われ、在銘塔の元々のパーツは基礎のみである。

永徳元年銘の宝篋印塔(下の写真二枚目)は、銘文から今川家被官の矢部隼人と言う豪族の墓と言うことが判明しているが、基礎・塔身と笠・相輪のバランスがかなり悪いため、笠・相輪は元来の矢部隼人の墓ではなく、別の宝篋印塔のパーツであろう。

向かって右側の五輪塔もそれぞれのパーツのバランスが悪く、あるいは応永十一年銘の五輪塔の地輪と応安六年銘の五輪塔の地輪が本来は逆なのかも知れない(応永十一年銘の五輪塔の火輪と空風輪は一具であろう)。


なお、祈願時の境内には「黒犬神社」があり、江戸時代の伝説上の神犬・クロがまつられていて武運長久の利益があるとされている。

社殿内には神犬の像が安置されているが、犬をまつった神社のためか、その周りには犬のぬいぐるみが多数奉納されている。

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