雑記:足利持氏と春王・安王

現在は加須市となったかつての騎西町の龍興寺は、奈良時代の創建と伝わる古刹であり、古河公方とのゆかりも深く文書も多く伝わっている。

境内には、初代古河公方足利成氏が造立したと言う足利持氏、春王、安王の供養塔がある。

向かって右側の宝篋印塔(四枚目)が成氏の父である四代鎌倉公方持氏の供養塔と伝わり、石塔の形式的にも寺伝と合致するが、ただし三基とも一度ばらばらに崩れてしまったものを後年組み直したものであり、その際に複数のパーツが混在してしまって当時のままではない。

とは言え、室町時代中期~後期の宝篋印塔には違いなく、三基の後ろには別の石塔の破片もあるので、あるいは当初はもっと多くの石塔があったのかも知れない。

境内には、他に鎌倉時代文永八年銘の板碑(五枚目)などの石造物もある。

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なお、春王、安王は足利持氏の子で成氏には兄に当たり、両者とも結城合戦で捕らえられて京都に送られる途中、将軍・足利義教の命によって美濃の垂井の宿で処刑された。

JR東海道本線の垂井駅から南に十分程歩いた国道沿いにも、足利春王と安王の墓と伝承される宝篋印塔がある(垂井駅から墓所に行く途中には、兄弟の木像がまつられている金蓮寺があり、この墓所は金蓮寺の旧境内であった)。

三基のうち、向かって左側の二基が春王と安王の墓で、複数の宝篋印塔の乱積みではあるが、こちらも室町時代のものである。

右側のやはり乱積みの宝篋印塔は、乳母の供養塔と言う。

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本編とは直接関係ないが垂井町つながりで紹介すると、JR東海道本線の垂井駅を出て、駅北口のロータリーから西へ進んで最初の踏切を南に渡ってすぐの所に(前述の金蓮寺のやや北方)、宝篋印塔が三基並んでいる一角がある。

三基とも乱積みで完形のものはないが、中央の宝篋印塔(下の写真二枚目)の基礎には康暦元年銘があり、基礎だけとは言え垂井町では最古の宝篋印塔である。

また、向かって右側の塔(下の写真三枚目)は笠と基礎は一具と思われ、残ったパーツからすると元来は比較的大型の宝篋印塔であったと考えられる。

どの石塔も乱積みであるが、いづれのパーツも室町時代前期の宝篋印塔のもので、元々この場所に六、七基の宝篋印塔があったのだろう。

話戻って、旧騎西町には享徳の乱に際して上杉氏と古河公方の抗争の地となった騎西城があり、現在城跡には郷土資料館と展望台を兼ねた模擬天守が建っているが、もとよりこれは当時の建造物とは全く関係ないものである。

入場は無料施設であるが常時あいているわけではなく、五月の連休のような観光シーズン以外は隣接する施設(図書館?)で鍵を借りないと入れない。

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