雑記:女戦国大名と由比正雪

静岡市の中心部から県道67号を清水方面に進んだ沓掛にある龍雲寺は、寿桂尼の菩提寺として知られる。

寿桂尼は京都の公家・中御門家の生まれで今川氏親に嫁ぎ、病身の氏親を助けて分国法・今川仮名目録の制定に関わったとも言われ、氏親の死後は彼女が生んだ子の氏輝、義元を補佐して後世「女戦国大名」と呼ばれた女傑である。

後世に「女戦国大名」や「女城主」などと異名を取る者は多いが、当主の職務を代行して自前の文書を発給した厳密な意味で「女戦国大名」と呼べる人物は、赤松政則夫人の洞松院尼と寿桂尼の二人だけである。

墓所は本堂裏檀家墓地のさらに奥にあり、夏場は草が生い茂っているため墓所まで行き着くのが困難である。

墓所には五輪塔が二基並んでおり、向かって右側の五輪塔(二枚目)を寿桂尼の墓と見なしているようであるが、右塔は形式的には江戸時代の石塔、それも乱積みで、向かって左側の五輪塔(三枚目)の方が完形の戦国時代末期の五輪塔である。

ただし、どちらにせよ寿桂尼の没年よりもだいぶ下る時期の造立であり、一説によれば、寿桂尼ではなくともに本間氏の墓と言い、かつては銘文も確認出来たと言う。

あるいは、五輪塔後方にある小型の一石五輪塔(四枚目)が寿桂尼の墓とも言われる。

画像1

画像2

画像3

画像4


なお、龍雲寺からほど近い同じ沓掛にある菩提樹院には、静岡出身で慶安の変の首謀者・由比正雪の首塚と伝承される石塔(下の写真一枚目)があり、傍らには正雪の銅像(下に写真二枚目)がある。

基礎が六角形なのは珍しいが、ただし各パーツは別物で乱積みの石塔である。

進士慶幹『由比正雪』(人物叢書、吉川弘文館)によれば、静岡市には元々正雪の首塚と称される石塔があったらしいが後年散逸し、現在菩提樹院にある石塔は、戦後に菩提樹院が都市計画のために現在の場所に移転した際にもたらされた全く別の石塔であると言う。

画像5

画像6


#静岡 #沓掛 #龍雲寺 #五輪塔 #寿桂尼 #今川仮名目録 #今川氏親 #女戦国大名 #本間氏 #戦国時代 #菩提樹院 #由比正雪 #慶安の変 #石塔 #歴史 #日本史

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?