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確立

隔離2日目の関仁です。

職場の隔離部屋メンバーの一人がドアを開けて仕事の話をしていた時に、管理職の方から、「近すぎる。もっと離れて話せ。自分が何でその部屋にいるのか、自覚しろ!」と言われているのが聞こえました。
そのメンバーはドアを閉めてからつまらなそうにし、「人として扱われていない。」と不満げに呟いた。
その後も「早く人間になりたい」と言っていました。

相当、ショックだったんだろうと思います。
どちらかと言えば、人の輪の中にいて輝く方なので、少ない人の中で小さな部屋に閉じ込められて、現場にも出られないのは苦痛なのだろうと思いました。

私はチーム員に頼み事をしなくて済むなら、まだまだ隔離生活を続けてもいいという気分だが、どうも今日で最後らしい。

外線の電話も取れないので、ポモロード法を使って自分の時間で区切りながら仕事をし、間にトイレや瞑想を挟んで、集中して業務にあたれた。

ただ瞑想中、メンバーの「早く人間になりたい」という言葉が頭をよぎり、脳内メモリを奪われた。

かの言葉は、妖怪人間ベムの代表的なセンテンスとも言えるだろう。
人として扱われたい。普通の人間として暮らしたい。という思いを表していますが、そこには、「たとえ妖怪のままだったとしても」という言葉があったかもしれない。もしくは「人間のように寿命がある中で生きたい。」という意味だったかもしれません。
作中に明言されてたかもしれないですが、そこまで覚えておりませぬ。

妖怪としての自分に価値を見出して、作中のように人助けができる力があることを自負し、誇りに思えるかもしれません。
一方、愛した人間と同じスパンで同じ足取りで一瞬の人生を生き抜きたい。と思うかもしれません。
関わった相手に、姿形は違えども同じ心を持つことを分かって欲しいし、同様に扱って欲しいのかもしれません。

自我の確立の結果、「早く人間になりたい」という発言の裏側には、どんな思いが形成されているのか。
ベム、ベラ、ベロですら、目的は一緒でもそこに辿り着く背景は違うのかも。

同じワードでも、辿って来た道のりで意味合いが変わる。
その歴史や背景を知らないのに、余計な口を挟みたくない。
それでも、無責任にも人体や文化が破壊されないで欲しい。と自分は丁重に隔離されたりと安全に過ごせる場所から、そんなことを思ってしまうのです。
何も手を尽くさないのに。

生まれた場所や環境が違うだけで、人として扱われない。
それは、事実、あると思います。
学校に。会社に。社会に。世界に。
ミクロ的には、この隔離部屋すら、一転すれば、そんな気配に支配されてしまう可能性を今日、感じました。

私は、一つの事象に対して、どんな捉え方をする人物になりたいのだろう。
それを体系的に理解することが自己の確立なのかもしれない。
そう思った、端金(はなきん)でした。

2022/2/25
せきひと

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