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イノベーションに興味が持てない

デザイナーの関口といいます。日本デザインセンターという会社に越してきて約一年半が経ちました。未だにいい意味で慣れることもなく、ありがたい環境で働いています。所属しているチームでnoteマガジン「ギンザウェブ」をはじめるということで、寄稿してみます。

まずはじめに、この一年半の自身の環境の変化によって感じていることについて書いてみようかと思います。

イノベーションとデザイン屋さん、ピントについて

この記事では、前半にポエム、後半に僕の最近の行動について書き下してみます。ちょっと長くなりそうですが、お付き合いください。


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・ イノベーションの示すもの

デザインとかスタートアップビジネス、果ては国策レベルにおいて「イノベーション」という言葉が重宝されて久しいですが、イノベーションっていきなり生まれる・生み出せるものなんでしょうか。あとから振り返って「ココだったね」というような特異点(*1)はあるのかもしれないですが、それすらも、わたしたちが日常過ごしているなかでは見えにくく、なんらかの延長線上にあるごく小さな点 ── 私的なエピソード ── に過ぎないんじゃないかと思います。

そうしてイノベーションという言葉をみると、日常にある解決しきれないモヤのようなものを一掃できるブレイクスルーがどこかにあるのではないか、という甘い幻想にすら見えてしまいます。

わたしたちの日常は残念ながらとても曖昧で、優柔不断で、流動的で、そんなにスッキリしないものです。でもそういった曖昧なものを受け止めて丁寧に答えていく、面倒でもひとつひとつ折り合いをつけていくことがものすごく大切なんじゃないかな、と思っています。

イノベーションは重要です。かんたんなものではないですし、社会にとってイノベーションのもたらす破壊的な変革が必要とされている局面が多いことは自明です。しかし、デザインならイノベーションが起こせてありとあらゆる難題をクリアできるのだという主張は、僕にはデザインの価値のピントをずらしているように感じてしまうのです。


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・ いかに続けるか、混ぜ物の中で過ごすか

僕はこれまでエディトリアルデザインを軸に、編集とか、出版とか、コンテンツとか・・・そういうものの整理をするような仕事をしてきました。社会人としては12年ほど、デザイナーとしては15年ほど実務をやっています。大学卒業時にやりたかったことはフライヤー裏のデザイン。いま敬愛するデザイナーは木村裕治さん。途中で企業系のウェブ制作にシフトしたものの、やっていることはあまり変わらないような気もします。

ですから、一瞬の瞬発力というよりは、継続的に発信を続けるとか、何らかの企みに向き合うとか、どちらかというと「いかに続けるか」みたいなところでジタバタしてきたような感覚があります。ベストエフォートの底上げみたいなところです。

また同時に、チームで制作するということも多かったような気がします。複数人でやることを妥協という人もいるかもしれませんが…だからこその「Big Idea」ではないですが、ある程度価値観の違う人間が寄り集まってできることに僕は可能性を感じますし、それ故の先の見えなさとか、コミュニケーションへのパワーの割き方みたいなところにポジティブさを感じます。とてもタフで地味な話なんですが、そこにどうしても意義を感じてしまうんですね。

・ デザイン屋さんのやるべきこと

いきなり結論から書きますが、「地道に、曖昧にいこう」ということが、最近僕が大切にしていることです。

例えば。デザインは課題解決だと言われます。一方、いやいや「問いの創出」もデザインだ、とも言いますね。自己表現ではないとか、思考法であるとか、クラフトであるとか、、、どれも正しいでしょう。じゃあ「みんな違ってみんな良い」なのかと言われれば、そんな曖昧でいいのかと言われてしまいそうです。

いいんです。

はい。もうこれ以降は読まなくてもいいかもしれませんが…書いていきます。僕は「極端=物事のそれ以上先のないところ」ではなくて、その中間こそが重要という考え方を持っています。物事に考え方や捉え方の軸があるとして、その軸の極点をめざすのは正義ですし、正解をたぐり寄せる努力は必要なことだと思います。

一方で、わたしたちデザイナーが日々の仕事をしていくなかで、つい極端なものを求められていると錯覚することはないでしょうか。あるかどうかもわからない正解を答えなければならない、という空気がわたしたちの周囲に濃く漂っている気がします。

しかし、少し立ち止まりたいと思います。

プロとして本当に誠実な姿ってどんなものか、という視点です。わたしたちはデザインの専門家ですが、だとすると、少なくともそうではない立場の人=同業他職種の人、クライアント、エンドユーザー・・・よりは様々な選択肢や業務上の可能性が見えているということになります(ホントかよ)。そうなったとき、「わかりやすくて単純な答え」が素直に返せるのでしょうか。※これは表現の話ではありません。

僕の答えは No です。一見わかりやすい答えは魅力的に写ります処理流暢性という言葉すらあります。しかし、それはあくまでサマライズ/デフォルメされたものであって、たくさんのこぼれ落ちていくものをいかに大切にできるかが大事なんじゃあないかと思うわけです。表現・アウトプットとしてシンプルなものに落ち着くことと、この問題は違うものだと考えています。

デザインという行為が定義として何なのかはさておき(いいのか)、感性的な部分を技術に落とす、逆に技術や社会といったものからヒトへ落とす、そういったデザインの意義のようなものを忘れないようにしたいといつも考えています。


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・ 階調と解像度

僕がよく使う言葉に、「ダイナミックレンジ」とか「スペクトラム」とかいう言葉があります。カッコつけてますが、要はグラデーション・階調です。会話のなかでちょっとフックを持たせたい時に意図的にこういったヨコモジを使います。セコい!

僕は Yes / No 両極のありようにあまり興味がないですし、簡単に答えを出すことにも慎重になります(面倒くさいですね…)。じゃあどんなところを大切にしているかというと、物事のグラデーションの中にある「解像度」を大切にしています。

若干矛盾するようですが、世の中あえて粗雑にまとめてしまったほうがいいこともあります。そうではなく、とても繊細・丁寧に扱ったほうがいいこともあります。その細かさ具合を推し量ることがいちばん重要なんじゃないかなと。都度都度、その時々で、適切な粒度をきめていく。そのジャンプ率・コントラストが高ければ高いほど、自分の制作者としての内面的なバランスを健全にしてくれるような気がしています。それは翻ってパフォーマンスにも現れ、お客さんにも返せるんじゃないかなと。

言い換えると、自分のモノサシを磨く、とも言えそうです。尺度が無数にあるなかで、常にアジャストし続ける。そういう態度を大切にしたいと考えます。

・ グレーを許容する

さらに言い換えていくと、これは限りなくなめらかなグレーの階調を恐れないということです。ゲルハルト・リヒターの『Eight Gray』という作品を金沢の21世紀美術館で見たことがあります。マーク・ロスコよろしく8つの巨大な絵画的たたずまいの作品に取り囲まれる部屋があり、それぞれがなんとも言いがたい濃度のグレーで均質に塗られ、ガラス質の加工で覆われています。目の前に立つと、鑑賞者である自分が周囲の環境とともにグレーの海に映り込んでいる姿が見えます。

どう解釈するかは人それぞれですが、僕は「白黒付けないことを恐れるな」というふうに勝手に解釈しました。わたしたちは限りなくグレーな世界に置かれているし、善悪や正解不正解はとても曖昧なものなんだよという主張と、リヒター自身がその世界と向き合う覚悟のようなものを感じたのでした。

・ (デザインの)価値のピントをあわせる

一時期僕は中古の「写真機」にハマってローンを組みまくっていた暗黒期があるのですが、これは機械というメディアを通して世界を眺めること自体の面白さを僕に教えてくれました。※ちなみにレンズ沼は一切発症していないです。

・曖昧でも、白黒ハッキリできなくても、常にアジャストし続ける。
・極大にも極小にもいけるけれど、曖昧さを主張する。
・わかりにくさを許容し、わかりやすさを過大評価しない。
・正義を捨てる。でも悪にはならない。
・それを続ける。

我ながらモヤモヤする回答ですが…もう、これは「生きてればオッケー!」ということなんです。そう、世の中や環境を変えるかどうかよりも、とりあえず生きることが重要です。新規書類を作成しましょう。パーマリンクをコピーして、ペーストしましょう。手帳の次のページをめくりましょう。眠って、また起きましょう。

明日はまた来ます。またデザインしましょう。


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じゃあ何してんの

このまま終わるとポエムで終了してしまいそうなので、僕という個人がこの一年半、そんなことを考えながら実務で少しずつ自身を変えてきたこと・実践してきたことを具体的に挙げてみます。

1. 肩書きを変えた
2. 職責を割り切った
3. 本気で営業してみた
4. 値付けを変えた
5. ポエムした

こんな感じです。ひとつずつ書いていきます。

1.  肩書きを変えた

もともと僕は前職ではアートディレクターという立場でした。お客さんの前に立ち、主にデザインパートと称されるところの担当者としてコミュニケーションをとる…そして直接手を動かすデザイナーに方針を出したりする。何をもってアートディレクターとするかはさておき、そういう動きでした。

現職では、僕は正式には「デザイナー」という役職です。だからなんだというわけではないですが、あくまでもイチ制作者、というわけです。

しかし、いろいろ不都合もありました。本音を言うと肩書きとか本当にどうでもよくて、むしろプリミティブな「デザイナー」のままでありたいな、それを誇りたいな…と思いつつ、そんな思いとは裏腹に一般的には「造る人」という見られ方をするわけです。つまりビジネスとか企画とか予算とかの話に口を突っ込んだりする雰囲気になかなかなりません。自分の関与できる変数が減る感じがあるな、という場面が多々ありました。

いまは、対外的にはクリエイティブディレクターと名乗ったりすることもあります。何も言ってないですね。そうなんです、何も言ってない肩書きだから、自由だなあということで、いまはそんな身の振り方をとることにしています。半年後に違うことを言っていたらスミマセン。

2.  職責を割り切った

そんなポジション意識があったことと同時に、ひとつ大きなターニングポイント的なことがありました。(身内をこう言うのもキモいのですが)同僚たちが異常に優秀で、なんかもう、僕、することないなあというある意味清々しい気持ちになることがあります。これまで、自身があまり手を動かさないで指示をしたりひたすら資料作りをしたりすることに正直言ってフラストレーションがありました。僕自身、あまり器用なタイプではなく手を動かしたくなるからです。資料作りやらタスク管理やら打ち合わせ漬けやらで文字通り消耗することもありました。

しかし、入社しておいてアレですが、いまのチームにはとてつもなく「腕力」のある仲間がいます(いや本当にビックリした)。ですから、いわゆるデザインの部分を安心しておまかせできるなという実感がありました。

その分、良いのか悪いのかもはやわかりませんが、案件によってはこれまでのキャリアのなかで不可抗力的に身に着けた「作る周辺のこと」を自分のメイン領域にして、いわば背中をきちんと預けさせてもらえる状況になったわけです。

入社後半年ぐらいから、「自分は手を動かしません、この人を信じます」という意味で、自分とは別の仲間にアートディレクターやデザイナーとして動いてもらうことが増えました。まだまだ至らないところが多すぎて胸を張って言える程でもないのですが、自分なりのチャレンジです(もちろんデザイナーとして動いている仕事もありますよ)。

3.  本気で営業してみた

ウェブデザインを軸とした部門「オンスクリーン制作室」の新装開店に乗じて中途入社した僕ですが、自分たちの価値をどうやったらきちんと提示でき、評価してもらえるのかということには悩みました。業界内の立ち位置やこれまで社として頂いてきた評価、そして自分たちチームのスキルセットやマインドなどについて切り分けつつ適切に説明し、きちんと社内外にとって生産的な案件の立て付けをしなければいけないという危機感です。

もともと控えめに言って不器用な性分で、Excelが大の苦手(*2)なダメデザイナーなのですが、必要に迫られガンガン見積を作りました。もちろんそのままではなく然るべき知識のあるメンバーのチェックを受けるわけですが、工数換算が良いのか、じゃあ単価はどうなんだ、費目建てはこれでどうか、いやいっそ一式だろう、といった部分まで自分でとりあえずやるようになりました。もちろん、それはそのままプロジェクトのデザインをする、という意味となり、メンバーへの敬意の表明になります。もちろんきれいごとだけでは仕事はまわらないのですが・・・。

そしてこれには、クライアントと交渉したり、受発注双方にとってアウトプットを出しやすい座組を考えたり提案したりすることも含まれます。つまりもっともらしく言うと、初動対応から案件化までを直接やっている状況です。とても営業ができるとは言い難いレベルではありますが、本気で自社やお客さんのことを考える延長線上のひとつという意味で、自分にとっては視野の広がるアクションです。

4.  値付けを変えた

これはまだごく一部に限られますが、自分自身の使っていただき方に幅を設けました。制作物/プロジェクト単位ではなく、半常駐的なかたちで一定工数をクライアント専従とし、お客さんのオフィスに座ってコミットする形式です。

こうすることで、案件化をするまで受託側の持ち出しになってしまうとか、稟議をいただかないと正式には額面が見えず見通しを立てにくいとか、一転、それでは意図せず発注側からは遅速に見えてしまう、といったクライアントの企画レイヤーを受託しようとしたときの悩みへの回答のひとつとして捉えています。

5.  ポエムした

そして最後ですが、意識的にポエムするようになりました。

どういうことかというと、「提案書には最低1ページ、純粋なポエムを書く」ということを実践しています。上記 1.〜4. のような専門性の拡張をする動きをとることで、逆に思い切りよく思想とか熱量とかを描けるようになった気がします。ポエムで終わらせる気がそもそもない、ということを現実的に提示しているからこそ、その前提の上での精神論が成立するんじゃないかなと。

結局は、本気でやる気があるのか、そういったことをクライアントは見ています。そしてわたしたち第三者の人間が余計なことを言ってしまう・言えてしまう構図を活かすためにも、施策がどうとか、エビデンスがどうとか、KPIがどう、といったことの土台になるものとして、価値観や思想についてしつこくしていきたいなと考えています。 ※これはちょっと長くなるので、また別の機会に。


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以上、これらはあくまで現時点での個人によるトライアルに過ぎませんが、モヤモヤ・モヤモヤと、しぶとくやり続けてみたいなと思っています。

デザインを続けること。何かを変えようとする前に、イチ個人として諦めず世の中と関わり続けること。そうすることで、商店街のおっちゃんのように地に足の着いたデザイン屋さんになりたいなあと思います。


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追記: もう少し裏側のことを、イベントでお話しました。

この記事を公開する少し前。あるところで、並行して考えていたお話をさせていただきました。クライアントワークのスイッチを外して、唾が飛ぶほど率直にお話をした(恥ずかしい熱弁をした)、貴重な経験でした。(2019.11.14 追記・2020.1.18 改訂)




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(*1) … 全然関係ないですが、年末に観た「仮面ライダー 平成ジェネレーションズ FOREVER」が想像以上のメタフィクションでぶったまげました。ライダーありがとう。SSSS.GRIDMAN とか Re:Creators とか レヴュースタァライト とか、プロとアマ/プレイヤーとオーディエンスが溶けていく状況の中でこうしてメジャーコンテンツの形式でメタフィクションを見ると、いろいろ思うことがありますね。

(*2) … MS Officeの、システムにインストールされているフォントが多いと一向に立ち上がらない問題で尚更アレルギーが増長・・・ G Suite 様々です。1万フォント以上ローカルに置いている自分がいけないのですが。


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