亡くなった人だけを愛し続けることは可能なのか

ある女性のインスタグラムを定期的にチェックしている。

相手は海外に住む女性。個人的な接点は全くない。
全くの無名ではないが、公に芸能活動をしているわけでもおそらくない。
ではなぜ、遠く離れた地に住む私が彼女のアカウントを知るまでに至ったのか。


彼女はある有名ライダーの婚約者だった。
(私はひそかにバイクレースを観戦する趣味がある)
ロードレース世界選手権の最高峰クラスで長年に渡る活躍をし、近年はチャレンジの場をスーパーバイクに移していたのだが
そのライダーは2年前、トレーニング中の事故で突然この世を去った。

長年バイクレース観戦をしているが、ライダーの死に直面するのはこれが初めてではない。
どうしても危険と隣り合わせな部分があるため(それはどんな職業でも同じだとは思うが)、レースや練習中に命を落としてしまうライダーを、私でさえ何人も見てきた。

何年も活躍を見てきたスポーツ選手の死はいつも特別に悲しい。
年間通してレースを観ていたからか、なんとなく勝手に「よく知る人物」のように感じてしまうのだ。

好きな日本人ライダーが命を落としてしまったときは、しばらく食事も喉を通らなかったし
ファンが参列できる告別式に参加したこともある。

知り合いではない私の心にも想像以上の喪失感をもたらすのだから、その方の身内やパートナーのことを考えるともう、辛すぎて悲しすぎて目を背けたくなってしまう。


SNSから察するに、おそらく彼らは遠くない将来正式に結婚する予定で
きっと幸せの絶頂だった。

ニュースによると、事故の数時間前も一緒に過ごしていたらしい。


お別れのセレモニーが行われた後、予想以上に早く彼女のインスタグラムが更新された。

長い英文。
あるサイトに、翻訳された文章が掲載されていた。

「彼は私の魂を持って行ってしまった」
「そのままにしておいてくれていいわ。
そして、いつかまた出会ったら、私の手を握り、家まで送って行ってね。
貴方が恋しい。また会う日まで。」


魂を持って行ってしまった。
その一文がとても苦しくて
それから彼女の状態が気になり、定期的にインスタグラムを覗くようになった。


訃報から2年経った今も、彼女は彼への愛を綴り続けている。


ある日は誕生日のお祝い。
ある日は何気ないツーショット写真と、それに付随するエピソード。
亡くなったあとも彼の家族と交流する様子。
彼女が彼を現在に生かしていると思うような、「日常のまんま」がそこにある。
そしてそこには悲壮感が微塵もない。

ずっと塞ぎ込んでいるわけではなく、
100パーセント彼のことで埋め尽くされているわけでもない。
外出も旅行も友人との会合も元気よく行っている。
よくいるセレブやモデルと変わらないライフスタイルが垣間見える華やかな日常。

でもそこには、その生活の中には確実に
いつも「彼」の居場所があるのだ。

訃報直後も、表面的な復活はとても早かった。こんなに早く日常生活を送れるのか、そんなわけはないと思った。

でもそれは、その後もずっと彼と生きる覚悟を当然のように決めたからなのかなと 少し思う。

本当に、今も隣にいるかのようなみずみずしい、ずっと変わらない愛情を伝え続けているのだから。

彼女にとって彼はそれほど素晴らしいパートナーで、永遠で
彼と出会えたことが、愛し愛されたことが
人生の何よりの誇りなのではないだろうか。

数多くの投稿と二人しか知らないエピソードの共有は、まるでその誇りの証明をしているように思えるのだ。


彼女が彼との日常をアップロードするたび、
嬉しかったり安堵したり、少し心配したりする
自分の複雑な感情に気がつく。

今もそこに生きている彼を見たい気持ちと
彼女なら「そうしてくれるだろう」という確信。

一方で、「彼女はいつまで彼だけを愛してくれるのだろう」と、新しい出会いがある前提で画面を眺めてしまう日もある。

「次に進んでも、きっと誰も咎めない」
そう伝えたくなる日だってある。


「でも、今日も彼だけを愛し続けてくれてありがとう」


自分はいったい彼女に何を求めてしまっているのだろう、と混乱することがある。


ニュースや人を通じて、さまざまな人の人生を垣間見てきた。

パートナーの死に立ち会った多くの人が、本当に本当に心が壊れるほど辛い気持ちを抱きながらも
時間をかけて悲しみを受け入れ、乗り越え、少しずついつもの生活に戻っていくことを
私たちはきっと間接的に知っている。
(もちろん全ての人がそうなると言っているわけではありません)

たとえば恋人の死に直面した芸能人が、数年後に新たな出会いを経て結婚したケースや
悲しい事件で配偶者を失った方が、時を経て別の方と再婚したニュースも
間接的に、少しは見てきたと思っている。


悲しみを越え、新たな幸せを共有していける相手を見つけること。
本当に良かった。あの人たちは、もう苦しみを一人で背負わなくてもいいんだ。
そう安堵すると同時に

頭では「何を思っている」と分かっているのだけれど、

そうだよな。
生きている限り、また他の人を好きになる可能性は
どんなに「この人しかいない」と思った人に出会えた後であっても
きっと、あるんだよな。

心のどこかでそう静かに受け入れる自分がいることにも気がついていた。


彼女を通じて、勝手に「永遠の愛」の存在を確認しているのかもしれない。


厨二病なことを言うけれど、

永遠の愛みたいなものは
確かにあるはずだけれど、
愛する人は、愛せる人は一人だけとは限らないのかもしれない。
生きている限り、人と関わる限り、
絶対なんて これが最後だなんて
きっと、ないんだよな。
それはもちろん、良い意味でもね。

また誰かを愛せるようになっても
失った人への愛が消えるわけではない。
あの人も大切なまま。
居場所がなくなるわけではない。
それももちろん分かっているつもりだ。

私が言いたいのはそういう寂しさではなく
そういう世界で生きているのだ、というただの事実だ。


比較する対象が不謹慎すぎるけれど、
そこまでの壮絶な体験を経てなお
誰かをまた愛せるのであれば

普通の失恋(本当にひどい表現で申し訳ない)程度なら、絶対にまた新しく心を許せる相手が現れるじゃないか、大丈夫だよ。と思うし
何に対しても「絶対」と決めなくてもいいのだなと。
自分も周りも変化する。
新たな自分の感情に素直になっていいということ。


もちろん、パートナーと死別後、ずっとその人との思い出を胸に ひとりで二人分を生きていく人だってたくさんいるはずだ。
その美しさとゆるぎなさは多くの人の希望になるのかもしれない。

でもそれだけが「正解」なわけでもないし
解放してくれる場所があるなら
そこへ行ってもいいんだよな。

すべては本人にしか決められないし本人しか許せない感情だ。


あなただけはずっと忘れずに、ずっとあの人だけを愛して生きていってほしい。
そんな使命を背負わせているつもりはないのに
無意識に自分以外の誰かの物語を「そういう気持ちで見ていた」人は、きっといると思う。

もしかしたら私もそうだったのかな。


心も体も人それぞれで、正解はない。
当たり前の事実を、彼女のまっすぐなインスタグラムを通じて感じている。


彼女の幸せは、彼とずっと二人で生きていくこと。
それは素晴らしく美しい選択でもあり、とても儚い覚悟でもある。

私も、きっと多くのファンも
今は結果的にそれを望んでしまっている。


でも彼女がもし、今後誰か別の人を愛せるようになったら
別の誰かと新しい人生を歩み始めたら。
そのときはもちろん、私も多くのフォロワーも祝福するだろう。
亡くなってしまった彼だって彼女の幸せを望むはずだし
きっとその場合は、豊かな愛が二倍になったと考えればいいのだから。


そう思いつつも、

それとも、祝福と大きな安堵に隠れて、少しの寂しさを抱える自分がいるのだろうか?
また複雑な気持ちになるのだろうか?

とぼんやり考える自分もいる。

一人だけに捧げる永遠の愛は、やっぱり難しいのかな。

そんな少しの間違った寂しさを、勝手に抱いてしまうのか。
彼女にそこまでの証明を背負わせてしまうのだろうか?


きっとそんなこと思わずにいられるよね。


彼女を通じて、永遠の愛の壮大な実証を目撃しているなんて
全然思っていないはずなんだ。


だから、
そんな自分勝手な感情を抱くことが、どうかこの先もありませんように。


そう願いながら、今日もスマートフォンの画面をタップして
指先からはじまる彼女の物語の続きを眺めている。


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