学校という永遠①幼稚園〜小学校の記憶

今年は今日が8月31日のようなものですね。

ネット上で、明日から学校がはじまる「ことが嫌な」学生たちに向けたメッセージや体験の発信が盛んに行われている。
この現象はいつからだっただろう。今年は特に、どんどん表に出てきている。

私も学生時代のことを振り返ってみようか。
ふとそんな気になった。

とくべつ影響力はないけれど、もし書くことでひとりでも死なない人や安心する人ができたらそれほど嬉しいことはないし、学生じゃない人にもなにかリンクする感情があるかもしれない。


そこまで壮絶な体験はないはずだけれど、ずっといわゆる「いじめられ」「よそ者」側の体質だった。



幼稚園の頃から片鱗はあった。
引っ越しが多く、1年だけしか通えなかった幼稚園。
卒園式の写真は隅っこの日陰に隠れた位置で、どれもまったく笑っていない。
仲間はずれにされていたわけではなかったはずだが、覚えているのは
絵を描く時間で先生にいろいろ質問をしたときに「またおまえかよ、もういいよ」とひとりの男子が嫌な顔をしたことだった。

たしかにひとりだけ、せんせい、せんせい!と異様にアピールをしていたと思う。
みんなのせんせいなのに、ひとりだけ出しゃばってしまった。
それがきっかけなのかは思い出せないけれど、ある日無邪気で活発だった私はいなくなった。


小学校に入学しても引っ越しが多い家庭は健在していた。
たった2ヶ月で横浜の学校を離れ、7月には東京の小学校で転校生として紹介された。

横浜の学校は楽しかった。幼稚園の暗さがリセットされたのか、あの2ヶ月はいちばん苦労せず明るくいられた。
クラスの雰囲気がとても良く、友達もたくさんできて、いい思い出しかない。
もらった「てんこうしてもわすれないでね」的なメッセージもめちゃくちゃ大切にして、実際に今も忘れていない。Y小学校のみんな、元気にしているだろうか。


東京のT小学校では、また暗い自分になった。

入学したばかりで転校生という異質な存在を受け入れる習慣は、今思えばみんななかったよねと思う。
クラスにまったく馴染めず、向こうも私をお客さん、それも「来てもあまり嬉しくないほうの」として扱った。

だれかと楽しく喋った記憶がほとんどない。
なにかの会合で列を作って歩かねばならないときも、一緒に歩ける人も話しかけられる人もいなかったから、そっといちばん後ろについた。

そのときの写真もどれもまったく笑っていないし、ほんとうに人生に絶望している表情だった。6歳で人生に絶望していた。
日曜日の夜は決まって明日が来ないでほしいと願いながら寝た。

小さい頃ならだれでも無邪気で、だれでも悩みがないなんて
大人には思わないでほしかった。

ただ、大人に学校が嫌なことを告白する勇気はなかった。
両親には、学校でうまくいっていると思ってほしかった。
小学1年生から、自分を必要以上によく見せようとしていたのだろうか。


引っ越し家庭が功を奏し、1年の終わりにはまた転校が決まった。

「この学校から離れられる」
なんだか未来に希望しかないように思えた。

それなのにお別れのメッセージでは、みんな「さみしい」と知らない言葉を残していた。ちょっとしたミステリーだった。

究極のツンデレだったのか、それとも早熟した社交辞令だったのか、今となっては答え合わせのしようがない。T小学校のみんな、あのときほんとうはどっちだったの?


小学校2年には埼玉のS小学校に転入した。
その後は家庭から引っ越し気質が消え去り、転校生の体験をすることはなくなった。
S小学校では明確な仲間はずれなどは経験せず、むしろ、ちょっとモテた。
げた箱にだれかからのラブレターがマジで入っていたり、クラスで人気のあった男子と噂になったりした。あくまで噂でしたが。
最初のクラス、2年5組がとても良いクラスだったことが幸運だった。2年5組は教室全体が明るく良い雰囲気でまとまっていて、そのバランスの良さが好きだった。
みんなから好かれている委員長的男子が私を受け入れてくれたことで、すんなりと輪に溶け込むことができた。

それでも数年間は、やっぱりどこかお客さん気質であり扱いだった。
ほんとうの自分はもっと明るくバカなのに、スタートでなぜかモテてしまったことが原因で、「関さん(せきららちゃんを本名と思ってください)は男子にモテる、おしとやかで女の子らしいキャラクター」と、勝手に少女漫画の人物像が形成されていたように思う。
うっかりそのイメージから外れると、また幼稚園や東京の小学校の頃のように、私は異物になってしまうかもしれない。

「ここではほんとうの自分を出せない。」
「でも、それでいじめられずにクラスに存在していられるのなら、ほんとうの自分は出さなくていいのかもしれない。」

4年ほど仮面を被った日々が続いた。


6年生になり、「ああもういやだ」と髪を切った。

おしとやかでおとなしい関さんを求められるのも演じるのも、お客さん扱いも、
やっぱりもう、いやだった。

私はもっと明るく元気な私になりたいし、もっと素の私を出したい。

髪を切ったのは、そうすればボーイッシュな少女漫画の女の子みたいに明るいキャラと簡単に認識されると思ったから。

女の子のイメージそのままのロングヘアから、まずは肩までのカットで様子を見ていたが
予想以上に気持ちが軽くなったため、「やはり、これはいける」と程なくしてばっさりとショートヘアへ。
ショートヘアで元気じゃない女の子なんていないと思っていたから、なんだか自分が思う以上に元気に拍車がかかり自信がついた。思い込みは時に大事だ。

たとえそれでクラスのポジションがおしとやかな関さんから変わらなくても、まあ1年経てば卒業だし、なんとでもやり直せるとも思っていたのも大きいかもしれない。


ショートヘア作戦は大成功だった。

「関さん、髪切ったの!ちょーかわいい!」
「そっちの方がいいよ!」
まず女の子が反応してくれた。


加えてそれまでは明かしていなかった少年漫画への傾倒ぶりを解禁した。
父の影響で毎週少年マガジンとサンデーを熟読していることを明かすと、男子の目もあっさりと変化した。
それまではおしとやかなイメージから外れるから明かさないほうがいいだろうと考えていたが、もう私は「元気なショートヘアの女の子」なので、そのキャラクターに合わせた趣味の追加が可能だった。


「関い、今週のマガジン読んだ?」
「俺のおすすめの漫画貸してやるよ」


休み時間にはクラスでいちばん人気だった男の子や活発なお調子者の男の子、さらにはヒエラルキー上位層でありながらそれを鼻にかけない素敵な性格の女子何人かと、くだらなく楽しい話をするようになった。

こういう話がしたかったのだ、と安堵した。


あの子は絶対に男の子の読む漫画なんか読まないから、と分けられて、チョイスする会話を選ばれてしまう。
当たり障りのない、今日は天気がいいですねって会話をずっと続けたい小学生は稀だと思う。


ちなみに私は幼い頃からアトピー体質で、小学校6年になると重度のステロイド皮膚症にも悩まされていた裏話もあるが、当時はアトピーよりも人間関係が良くなるほうが嬉しいと思っていたし、学校のみんなは聡明で「アトピーだから差別する」なんて人はいなかった。
そのためこの話にはアトピーのことはあまり登場しない。
数年後には命を終わらせたくなるほどアトピーに追い詰められるのですが、それはまた別の機会に。
小学生は無邪気で残酷な場合も多いと考えると、かなり恵まれていたかもしれない。
それとも、もしかしてアトピーが悪化したからかわいいおしとやかモテ像がみんなの中で崩れたのだろうか?それはそれで残酷。
まあもしそうだとしても、結果オーライ。私はなりたい私に性格上は変化できたのだから。


とにかく「ショートヘア大作戦」の成功体験が「ああ、私は私のままでも大丈夫なのだな」と安心できるきっかけになったわけなのだが(厳密に言えば髪を切ったことで本来の自分以上に明るくなりポテンシャルが引き出されたため、ほんとうの素とはどれなのかという懸念もあるが)、
これにてめでたしめでたし、とはならない。全然ならない。
それが学校という組織の面白くも面倒くさいところだった。


中学校から高校にかけての話は、このあとの記事で。
自我が発達したゆえに悩むことや問題もさらに増えた。
基本的にそこでも躓いているし、明日が来ないで欲しいと何度も願ったし、赤信号を渡りたくなったけれど、
登校拒否をしたことはないし、学校も辞めなかった。
で、今、のんきに生きてます。大丈夫だよ。

それがいつかは終わると知っていた。
そして「逃げる手段」が他にもたくさんあったことを、生活の中で知っていった。
それはきっと、とても大きな支えだった。

今日中に書けるといいな。


#学校 #日記 #エッセイ #コラム #いじめ #人間関係
#思考 #ことば #言葉 #文章 #悩み #友達 #diary #8月31日の夜に


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?