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聖フランシスコと味わう主日のみことば〈主の昇天〉


弟子達は出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。(マルコ16・20)。




復活してから40日間、弟子たちの前に姿を現して彼らと共に過ごしたイエスが、ついに、父である神のもとへと昇っていく時がきました。この40日間、イエスは弟子たちとどのようなことを語り合っていたのでしょうか。

おそらく、イエスは、神の国の福音を告げ知らせる使命を彼らに託するにあたって、そこに伴ういろいろな試練や問題に対する心構えなどを、優しくかみ砕きながら教えたことでしょう。この時の弟子たちの心境は、親離れを強いられる子どものようなものであったかもしれません。未知の経験が待つ場へと送り込まれる弟子たちにとって、いるはずのイエスの存在が、肉体的な感覚によっては確認出来なくなってしまうことは心許ないことであったでしょう。

しかし、イエスは不安がる非力な弟子たちに、ご自分の使命を委ねます。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(16・15)。イエスは、弟子たちの言葉をとおして信じる者たちに、神の恵みによって特別な霊的な力が与えられると言います。「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば直る」(16・17-18)。

さて、現代に生きるわたしたちは、このイエスの言葉をどのように受け取ったら良いでしょうか。わたしたちは、イエスを信じる者として、悪霊を追い出したり、毒を飲んでも害を受けず、病気を癒したりすることが出来るでしょうか。この言葉を文字通りに取れば、わたしたちは何かしら奇跡を起こすことが出来る超能力者のようです。ですが、そうした超人的な奇跡だけが、イエスを信じる者としての〈しるし〉として、悪霊に対抗する手段ではないのです。イエスのこの言葉を、より霊的な次元で理解するならば、聖フランシスコの次の言葉が心に響くのではないでしょうか。

神の僕(しもべ)は、内的かつ外的な霊的喜びを持ち、保ち続けるように努めなければなりません。この〈喜び〉は清浄な心から湧きいで、敬虔な祈りを通して修得され、悪霊どももこれを損なうことは決してできません。彼らは言います、「神の僕は逆境にあっても順境にあっても喜びを抱いているから、奴につけ入る隙も見出せないし、危害を加えることもできない」。だが、清い祈りと他の徳となるような行いから生ずる敬虔な思いと喜びとを消し去ったり、少しでも阻止することができたときには、悪霊どもは喜び踊るのです。もしも悪魔が神の僕のうちに自分の入り込む隙を手に入れることができたとして、聖なる行い、痛悔、告白、償いの力によって、できうる限り早急に、それを拭い去り破壊するほどに賢明でも思慮分別に富んでいなかったなら、瞬く間に、一本の毛髪から一本の梁を作り上げ、ますます力を発揮することになります。ですから、わたしたちの兄弟たちよ、この霊的な喜びは、清浄な心と澄み切った絶え間ない祈りから生じるのですから、何よりもまず、この二つを手に入れ保持するようにしなければなりません。わたしのうちに、そしてあなた方のうちに、この喜びを見いだし感じ取ることこそ、心の底からわたしが願い大切にしていることなのです。そうすればあなた方は内的にも外的にも隣人を啓発することができ、敵を恥じ入らせることができるでしょう。敵とその手先どもにとっては悲しみが、わたしたちにとっては常に主において喜びに喜ぶことこそふさわしいことなのです〈『完全の鑑』〉※1。


フランシスコが自分自身と兄弟たちに、キリストに従う者(イエスを信じる者)として常に保っていなければならない〈しるし〉とは、絶えず内的かつ外的な〈霊的喜び〉でした。彼は、兄弟たちの内に、悲しそうな表情や不機嫌な表情を見るのを好みませんでした。なぜなら、内的外的な落胆や不機嫌さは、神の恵みの現れではなく、悪霊に隙を与えて、その人の中で働かせてしまっている結果だと分かっていたからです。

このように考えると、イエスを信じる者に与えると約束したこれらの〈しるし〉とは、神の恵みによってその人自身から溢れ出る〈霊的な喜び〉であるといえるでしょう。この〈霊的な喜び〉があればこそ、福音宣教は、本当の意味でその推進力を得るのです。そして、この喜びは、いつもわたしたちと共にいてくださるイエスを心の中で大切に意識すればするほど、ますます大きく成長していくでしょう。


※1 『アシジの聖フランシスコ伝記資料集』フランシスコ会日本管区訳・監修、教文館、2015年、627-628頁。

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